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イザベラ・バード

イザベラ・ルーシー・バード(Isabella Lucy Bird, 1831年(天保2年)10月15日 - 1904年(明治37年)10月7日)は、19世紀の大英帝国の旅行家、探検家、紀行作家、写真家、ナチュラリスト。ファニー・ジェーン・バトラー(英語版)と共同で、インドのジャンムー・カシミール州シュリーナガルにジョン・ビショップ記念病院を設立した。バードは女性として最初に英国地理学会特別会員に選出された。1881年(明治14年)にの侍医であったジョン·ビショップと結婚し、イザベラ・バード・ビショップ(Isabella Bird Bishop)、ビショップ夫人とも称された。

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略歴

1831年10月15日、イギリス・ヨークシャーで牧師の二人姉妹の長女として生まれる。の名はヘンリエッタ(ヘニー)。宗教色の強い中流家庭で育った。幼少時に病弱で、時には北米まで転地療養したことがきっかけとなり、長じて旅に憧れるようになる。アメリカやカナダを旅し、1856年(日本では安政3年)、"The Englishwoman in America"を書いた。1857年に父親を亡くし、母親ととともにエジンバラに転居。その後、ヴィクトリアン・レディ・トラヴェラー(当時としては珍しい女性旅行家)として、世界中を旅した。『サンドイッチ諸島での六ヶ月』『ロッキー山脈におけるある婦人の生活』を著す。

英国枢密院の要職を勤めるジョン・フランシス・キャンベル (John Francis Campbell) の『私の周遊記 (My Circular Notes) , 1876)』を読んで、バードも世界旅行を思い立った。キャンベルが日本で世話になった明治政府御雇外国人のコリン・アレクサンダー・マクヴェイン (Colin Alexander McVean) 夫妻が帰国し、1876年から1878年までにエジンバラで生活していたことから、バードは頻繁に夫妻を訪れ日本の情報を集めた。キャンベルは女性の一人旅に否定的であったが、マクヴェインは日本の知人・友人を紹介するなど旅行の助言や便宜を提供し、バードの背中を押してあげた。バードはキャンベルの旅行とは逆の経路を通り、4月9日にヨーロッパ大陸を経由して日本に向かった。

1878年(明治11年)6月から9月にかけて、通訳兼従者として雇った伊藤鶴吉を供とし、東京を起点に日光から新潟県へ抜け、日本海側から北海道に至る北日本を旅した。多くの行程は伊藤と2人での旅だったが、所々で現地ガイドなどを伴うこともあった。また10月から神戸、京都、伊勢、大阪を訪ねている。これらの体験を、1880年(明治13年)、"Unbeaten Tracks in Japan" 2巻にまとめた。第1巻は北日本旅行記、第2巻は関西方面の記録である。この中で、英国公使ハリー・パークス、後に明治学院を設立するヘボン博士(ジェームス・カーティス・ヘボン)、同志社のJ.D.デイヴィスと新島夫妻(新島襄・新島八重)らを訪問、面会した記述も含まれている。1881年にピショップ博士と結婚。その後、1885年(明治18年)に関西旅行の記述、その他を省略した普及版が出版される。本書は明治期の外来人の視点を通して日本を知る貴重な文献である。特に、アイヌの生活ぶりや風俗については、まだアイヌ文化の研究が本格化する前の明治時代初期の状況を詳らかに紹介したほぼ唯一の文献である。

1886年に夫が死去。医療伝道を目的に1889年よりインドからペルシャ、チベットへ旅する。

1893年(明治26年)、世界各地の辺地旅行記の出版などの功績が認められてヴィクトリア女王に謁見。英国地理学会特別会員となる。1894年(明治27年)、カナダ経由で清国、日本朝鮮を旅し、1897年(明治30年)までに、4度にわたり末期の李氏朝鮮を訪れ、1898年に旅行記"Korea and Her Neighbours"(『朝鮮紀行』)を、翌1899年に『中国奥地紀行』を出版した。

1901年には半年間モロッコを旅し、中国への再度の旅行を計画していたが、1904年(明治37年)に73歳の誕生日を前にしてエディンバラで死去した。同地のディーン墓地に埋葬されている。

家族

『日本奥地紀行』

1878年(明治11年)6月から9月にかけ『日本奥地紀行』は執筆され、1880年(明治13年)に "Unbeaten Tracks in Japan"(直訳すると「日本における人跡未踏の道」)として刊行された。冒頭の「はしがき」では「(私の)全行程を踏破したヨーロッパ人はこれまでに一人もいなかった」と記し、また「西洋人のよく出かけるところは、日光を例外として詳しくは述べなかった」と記し、この紀行が既存の日本旅行記とは性格を異にすることを明言している。

栃木県壬生町から鹿沼市の日光杉並木に至る例幣使街道では、よく手入れされた大麻畑や街道沿いの景色に日本の美しさを実感したと書いている。また、日光で滞在した金谷邸(カナヤ・カッテージ・イン)にはその内外に日本の牧歌的生活があると絶賛し、ここに丸々2週間滞在して日光東照宮をはじめ、日光の景勝地を家主金谷善一郎および通訳の伊藤とともに探訪する。

日光滞在10日目には奥日光を訪れるが、梅雨時の豊かな水と日光に育まれた植生、コケ、シダ、木々の深緑と鮮やかに咲く花々が中禅寺湖、男体山、華厳滝、竜頭滝、戦場ヶ原、湯滝、湯元湖を彩る様を闊達に描写し、絶賛している。街道の終点である湯元温泉にも大変な関心を示し、湯治場を訪れている湯治客の様子を詳らかに記している。またその宿屋(やしま屋)の大変清潔である様を、埃まみれの人間ではなく妖精が似合う宿であると形容し、1泊したうえで金谷邸への帰途に就く。

山形県南陽市の赤湯温泉の湯治風景に強い関心を示し、置賜地方を「エデンの園」とし、その風景を「東洋のアルカディア」と評した。

『日本奥地紀行』では当時の日本をこう書いている。

私はそれから奥地や蝦夷を1200マイルに渡って旅をしたが、まったく安全でしかも心配もなかった。世界中で日本ほど婦人が危険にも無作法な目にもあわず、まったく安全に旅行できる国はないと信じている

他には新潟を「美しい繁華な町」としつつも、県庁、裁判所、学校、銀行などが「大胆でよく目立つ味気ない」としたり、湯沢を「特にいやな感じのする町である」と記したり、また黒石の上中野を美しいと絶賛したりしている。

他方、「日本人は、西洋の服装をすると、とても小さく見える。どの服も合わない。日本人のみじめな体格、凹んだ胸部、がにまた足という国民的欠陥をいっそうひどくさせるだけである」、また「日本人の黄色い皮膚、馬のような固い髪、弱弱しい瞼、細長い眼、尻下がりの眉毛、平べったい鼻、凹んだ胸、蒙古系の頬が出た顔形、ちっぽけな体格、男たちのよろよろした歩きつき、女たちのよちよちした歩きぶりなど、一般に日本人の姿を見て感じるのは堕落しているという印象である。」と日本人の人種的外観について記している。なおアイヌ人については「未開人のなかで最も獰猛」そうであるが、話すと明るい微笑にあふれると書いている。ほかにもホザワ(宝坂?)と栄山の集落について「不潔さの極み」と表し、「彼らは礼儀正しく、やさしくて勤勉で、ひどい罪悪を犯すようなことは全くない。しかし、私が日本人と話をかわしたり、いろいろ多くのものを見た結果として、彼らの基本道徳の水準は非常に低いものであり、生活は誠実でもなければ清純でもない、と判断せざるをえない」と阿賀野川の津川で書くなど、当時の日本の寒村における貧民の生活について、肯定的な側面と否定的な側面双方を多面的に記述している。

なお、現代の阿賀野川では「イザベラ・バード号」と命名された観光船が運航されている。

『朝鮮紀行』

最初の朝鮮訪問は1894年(明治27年)。以降3年のうちに、バードは4度にわたり朝鮮各地を旅し、『朝鮮紀行』を記した。『朝鮮紀行』は、国際情勢に翻弄される李氏朝鮮の不穏な政情、伝統的封建的伝統、文化など、バードが直に見聞きした朝鮮の情勢を伝える。

筆者の犀利な観察眼と朝鮮の資料としての評価により、1925年(大正14年)に日本国内でも抄訳され、『三十年前の朝鮮』の書名で出版された。


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