「残念ながら、周辺の地域は人っ子一人いない、正に『死の街』でした。」
~ フクシマ について、鉢呂吉雄(考古学者)
フクシマとは、日本の福島県に存在する古代遺跡である。
この遺跡を中心とする地域には太古の昔、神聖なるフクシマ文明が盛えていたと推定されている。2011年に、平泉の文化遺産や小笠原諸島とともに世界遺産に登録され、世界的に有名になった。
近年、日本の福島県に、謎の遺跡が存在することが調査により明らかになった。所謂フクシマ遺跡の発見である。この遺跡の存在は地元住民の間で囁かれていたが、その周囲は20kmに渡り先祖代々立ち入ることを許されない禁断の地とされ、入った者は必ず災難になり非業の死を遂げると言い伝えられてきたので、遺跡を実際に見た者はいなかった。又、遺跡の存在を外部に漏らすことは厳に禁じられていた。
しかし、数年前に偶然とある考古学者の耳にするところとなって遺跡の存在が明らかになり、「日本のポンペイ」等と呼ばれて大きな話題となった。その後長期間に亘る地元住民との交渉の結果、ようやくその禁断の地に学者が入ることが許され、現在ではだいぶ調査が進んでいる。しかし、未だに遺跡に入ることは許されていない。考古学上、フクシマ遺跡の周辺半径約20kmの地域をフクシマと呼び、そこに栄えていたと考えられている文明をフクシマ文明と呼ぶ。
この世紀の発見により、当該地域が古代遺跡として一躍有名になったため、これに乗じた「食べて応援」等と称するご当地グルメ企画が、町おこしとして周辺自治体によって盛んに行われている。
考古学者の調査によって、このフクシマに存在した文明の実態が明らかになりつつある。フクシマ神殿のあるオークマを中心に、フタヴァやナーミエなどの村落では、各村長はフクシマの神の下に連合の盟約を結んでいたとされる。そして、フクシマの神に祈りを捧げる神殿として造られたのがフクシマ神殿であった。又、このフクシマ神殿が建てられる前は、苦い麻が自生したり、野生の熊が出没したりの土地だったという。
フクシマ文明には、カースト制のような身分階級制度が存在していた。その頂点に立っていたのがテプコと呼ばれる神官たちである。彼らは特殊な神官服に身を包んだ異様な出で立ちであったとされ、遺跡に入り神に祈りを捧げ、その啓示を聞くことが許された特権階級であった。彼らの最も重要な職務は神の機嫌をとり、その偉大な力を授かる事であった。神の機嫌を損ねることは即ち世界の破滅を招くと考えられたため、テプコによって日々厳かな儀式が行われていた。伝承によれば、彼らが祭る神は青白い光を放つ物体であったが、あまりに神々しいので、たとえテプコであってもその光を見ることは許されなかった。その光を見た者は全身が焼けただれ、無残な姿になると噂されていた。ただ、テプコによって選ばれた一部の住民は神殿に入ることができ、これは大変名誉なこととされ一族は皆栄達し豊かになったという。
更に、フクシマには、驚くべきことに神殿のみならず巨大な球技施設や市民プール、図書館などの公共建造物と思われる遺跡が多く残されていた。このような豪華な建物がどのようにして建てられたのは考古学者を悩ませている謎であるが、伝承によれば大昔、遺跡に住まう神の御業によって建てられのだという。この伝承を信じていた住民は、祭られている神々を厚く信奉していたようである。実際に、フクシマにある通りの遺跡には、「神は明るい未来、豊な生活を約束する」という趣旨の、神を賛える語句が至る所に見られる。フクシマの人口は、最盛期では数万人に達したと考えられている。
このように高度な文明を持ったフクシマは、なぜ滅んだたのだろうか。有力な説の一つに、謎の疫病が蔓延し生活が維持できなくなったというものがある。疫病は神の怒りと考えられており、神官たるテプコが「現実には起こり得ない」と見ていた天変地異によって神殿が破壊され、神への供物が途絶えたために神が怒り狂って、大地や海、空気、雨、食物などあらゆる物が汚され疫病が蔓延したという。神の怒りに怯えた住民は、神官たるテプコの怠慢を追求し、その権威は地に落ちた。最末期には疫病を止めるために神の怒りを解くあらゆる方法が考え出され、その中で人身御供らしきものが行われていたのではないかとする文献もある。
結局、数万人の住民はフクシマを捨てて全国各地に四散せざるを得なくなり、その子孫を特定することは、今となっては不可能である。疫病はその他地域にも点在して広がり、ホットスポットと呼ばれている。ホットスポットには、神の力を封じるためと思われるまじないの跡が残っていることが多い。
現在、日本政府による国家プロジェクトにより、発掘調査が行われている。しかし、調査の完結には1世代どころか2世代以上も要すると言われており、終わる見通しはない。