少数派(しょうすうは、Minority)とは、群れない生き方である。
概要[編集] 好きなものは好きだし、嫌いなものは嫌いである。正しいことを正しいと言い、間違っていることは間違っていると言うべきである。たとえ親友のあなたが「カラスは白く、白い馬は馬じゃない」と言ったって、私はあくまで「白いのもいるけど、やっぱり普通カラスは黒いし、白くったって馬は馬だ」と言うのである。たとえ誰の発言であろうと、みんながその意見に賛同しているとしても、本心が反対であれば、あくまで反対の意見を貫き通すべきである(もちろん、本心から賛成であればあえて反発する必要もない)。 たとえみんなが渡っていたって、やはり赤信号は危ないから渡っちゃダメなのである(少なくとも道路交通法上は)。 またあなたが、「あなたはマジでカスだ」と思うのならば、その思いを伝えるべきである。あなたが正しい、賛成と思うことは、進んでやった方が良いのだ。 もしあなたが、イラク戦争を止めようとしたいのであれば、イラクかアメリカに何らかの攻撃を与えても良いのである。それをあなたが正しいと思うのならば。 その結果として、たまたま多数派(Majority)からあぶれてしまっただけであって、別にそれが悪いなどと言うことは決してないのである。他人は他人、自分は自分でマイペースに過ごしていればそれでいいのである。
「♪知らないわ 周りの事など 私は私 それだけ……♪」
~ 少数派 について、nomico氏
古来よりムラ社会である日本において、集団の不文律すなわち空気が読めないことは社会的欠陥として忌み嫌われており[不要出典]、みんながすることをしなかったり、逆にみんながしないことをしたりなどの行動が往々にしてコミュニティからの迫害を招く結果となる事が多い。そのため自分がいわゆる少数派であることをカミングアウトするには非常に勇気が要るとされており、そこを逆手にとって、あえて少数派を自称することによって世間の注目を集めようとする手法が1990年代後半から隠然たる流行の兆しを見せ始めた。これがいわゆる中二病であり、その蔓延と共に日本の公衆道徳が乱れ始めたとする意見が一部において提唱されているが、しょせん少数派についての少数派の意見など誰も気にしないのであった。また、あえて少数派を自称することによって世間の注目を集めようとする手法の流行によって少数派の数が急増するとそれが多数派となるので、国民性・民族性を変えないといつまでたっても日本はムラ社会のままである。
大国(たとえばアメリカ、中国、ロシアその他)のボランティア精神を満たすためによく掃除(粛清、殲滅、虐殺その他)の対象とされる事が多く、時にはレジャー・ハンティングや軍事演習における標的として娯楽を提供している。有名なところではインディアンやチベット人、ウイグル人やチェチェン人など、価値観や風習において多数派に属さない(あるいは属することの出来ない)人々がその役目を負わされっている。
いわゆる変態と呼ばれる人たちで、ゲイ(ホモセクシャル、レズビアン、バイセクシャルの総称)や特殊プレイ(SM、スカトロ、猟奇その他)愛好者が自分の心を偽れずに「好きなものが好きで、何が悪い!」「裸で何が悪い!」などと宣言してしまったために社会的に抹殺されてしまったり、あるいはカネやコネでそうした黒歴史をなかったことに出来る人もたまにいるが、どちらにせよ市民権を得るまでには遠い道のりが続いている。あるいは、最初から認知されることなど期待しておらず、あくまでもマイノリティであることを自らのアイデンティティとして生きることを選択する者も少なくない。