マナーとは、自分とみんなのための立ち振る舞い、生活の仕方のことである。
一般的には、その場その場においての作法であったり、その文化で生きるときの行儀のことである。
例えば、誰かと会話をするとき、誰か人と会うとき、誰かとものを食べるとき、自分がやりやすいように、そしてほかの人が不快にならないように気をつけることがいくつかある。
例えば、ある国の文化において、こうした方が美しいであるとか、素晴らしいであるとか、気持ちが伝わるであるとか、そのような行儀がある。
これらの、ある意味空気を読むであるとか、常識的に考えた結果がマナーと呼ばれる。
概要で取り上げたマナーについては、日常生活をしていく中で自然と身につける物であるが、特定のコミュニティ、文化の中で作られていったマナーについては、自然と身につける機会は非常に少ない。また、場合によっては一般的なマナーとは全く違う考え方によって「行儀が良い」とされることもある。
また、まだ成熟しきっていないコミュニティにおいては、様々なマナーが主張されるケースもある。また、マナー自体が絶対的な定義によって決められる物ではないため、絶対に正しいマナーが存在しないことも珍しくない。
そのため、人によってマナーと思われる作法、礼儀、行儀が異なるケースがあり、複数のマナーが衝突することもあるが、基本的に自ら進んでマナーを破ろうとしているのではなく、各自にとってよりよくしようと思った上の善意で揉めることがある。
しかし、善意の押し付けよりもっと問題となるのは、自分だけが不快なことを「自分が嫌だから」と発言しても周りに聞いてもらえないから、という理由で「マナー違反」という言葉にすり替えて論じるケースである。
オンラインやソーシャルゲームや各種コミュニティサービスなどを提供する運営側が特にルール違反と定めていない行為であっても、その行為によって何らかの不自由や不利益を被る人が出る場合が多分にある。そのような行為によって不利益を被る側の人は当然嫌な思いをする訳であるが、その相手も別にルールを破っているわけではなく、定められたルールの範囲内でやっているに過ぎないことが多い。そこで、不利益を受ける側の人(大抵は立場的に弱い側の人)が「自分はその行為が嫌だ」という言葉を「(その行為は)マナー違反です」という言葉にすり替えて、同じような不利益を得ている周囲の他者を取り込もうとする。これこそが「マナー違反」という言葉の正体なのである。
しかしながらこのような言い分は本来の意味の「マナー」とはかけ離れたものであり、逆に相手側がルールを破っていないにもかかわらず「マナー違反」とみなされることでルールに無い部分まで拘束され、逆に不自由や不利益を被ることになってしまい、嫌な思いをすることになってしまう。ゆえに「マナー違反です」と主張しても結局はお互いが対立するだけで、不毛な論争を呼び、場が荒れてしまうのがオチである。
つまり、自分が嫌なことはマナー違反などと言う言葉に頼らず、ただ単に「自分は(それが)嫌だ」と言えば良いだけのことなのである。しかし、大抵の場合そのままの言い分では受け入れてもらえないから、自分もいくらか引き下がって相手と話し合い、妥協点を探っていくより他に無いであろう。
基本的な考えとしてのマナーとは、自分とみんなの事を考えた上での立ち振る舞いであるので、人によって解釈の異なるマナーについては、自分の考えと違うからと言う理由で簡単にマナー違反と批難するのではなく、お互いに何を考えた上でのマナーであるかを想像して、相手へ不快と捉えられてしまう振る舞いについては、お互いに相手を思いやって行動することが望ましい。
マナー違反と騒ぐだけではただ不快の押し付け合いにしかならない。