削除(さくじょ、英名: Deletion、独名: Streichung)とは、あるものをなかったことにすることであり、「自分の望む世界を実現する最も手っ取り早い手段」である(涼宮ハヒル談)。
削除とは「削り除く」、すなわち「かあさん、俺が削り節嫌いなの知ってるだろ。いちいち取り除くの面倒なんだから最初から乗せんなよな」という意味が転じて、転じて、転じる事なくそのままに、自分の口に合わないものを排除する行為を指差して、「ママ、あの人ダブルのスーツなのにネクタイを靴下の…」「見ちゃいけません。ほら真っすぐ前を見て歩きなさい」「でもでも、靴下とネクタイの…」「でもじゃありません!」と無かった事にしてそのまま通り過ぎる行為である。わかりにくかったら削除してください。
この「なかったことにする」という手法はあまりにも手っ取り早い解決法であるため、この手段を一般開放した場合、皆が削除しまくってこの世が消滅してしまう可能性が大きいため、一般的にこの権限は厳しく管理されており、削除権限を持つものは特権階級としてこの世界に君臨している。
削除の対象は大抵の場合情報に限られるが、ときに人がその対象になることもある。より普遍的な言葉で説明すると、殺害あるいは社会的抹殺である。悪い人間や嫌いな人間に対してもし削除権限が行使できるのであればそれは非常に便利はであるが、後述の人に対する削除の歴史のように、そのような行為を繰り返し続けると大抵ろくなことにはならない。そして、そのことを我々に教えてくれているのがドラえもんの秘密道具・独裁スイッチなのである。
人以外でも、動物や植物に対して削除が行われることがある。動物は増えすぎると生態系の破壊を進めたり食害を起こしたりと危険になるため、時折猟銃等によって削除が行われる。植物も特に杉が増えすぎて(これはダジャレのつもりで書いたのではない)人々に深刻な花粉症を引き起こすようになったため、杉の木の大量削除が進められている。それらが人間のエゴに過ぎないという意見も間違っているわけではないであろうが、やがてそのエゴが人間の大量削除をも再び引き起こすのかもしれない。多分。
人類と削除は、はるか昔より切っても切り離せない関係にあった。かつて神は創世の際に己に似せてアダムとイブを創ると、彼らに対して「生めよ、増やせよ、地に満ちよ」と祝電を送ったので、祝電を受け取った彼らは取り敢えずその通りにセックスしまくって地上に満ちていった。しかし、人々の間で悪い行いが増えたり、神のように全能の力と名声を得ようとすると、たちまち神はメンヘラとなって人類を生み出したことを後悔した。そうした時に神が取った行動こそが削除であった。しかし、ここで神がとった削除手段は非常に極端だったので、あるときは大洪水を起こし、またある時は硫黄と火を降らせて、善い行いをする人々と悪い行いをする人々を一緒くたにしてすべて削除していった。そうして神はどんどん顰蹙を買っていったので、最終的にそのようなことをすることはなくなった。
その後も人々を一気に大量削除しようとした人は度々現れたが、大抵は長続きしていない。ユダヤ人を一括で削除しようとしたアドルフ・ヒトラーは戦争に負けて自殺したし、カンボジアを改革しようとして反乱しそうな人々をすべて削除していったポル・ポトもベトナム軍から敗走した。こうして削除の対象は情報に限られていったのである。