当時フランス王国ではフランス革命後、主に王政派、ジャコバン派に分かれて争っていた。あくまで情勢は議会を設置する流れ(三部会招集によって絶対王政は崩れた形なので)だが、王政派は絶対王政死守、貴族・僧侶の特権を守る立場、ジャコバン派は王を立憲君主制の下認める派閥(後のフイヤン派)、や共和制を第一として王政の入り込む余地を認めない派閥(後のモンターニュ派)等がひしめき合っていた。僅か10年程の間だが、この争いの中で王政派、王党派の残党、つまり体制=王政を維持、または無批判に肯定する立場を「右翼」とし、対するもの、主に共和制樹立からさらに共産主義へ向くものを「左翼」とする。
フランスの場合、フランス革命以来の王党派右翼は、ブルボン王家の絶対王政復興派、オルレアン王家の立憲君主制派も、共に19世紀末にはすっかり衰微していった。代わりに外国からの侵略が迫る中で、自分達を守る、つまり当時フランス共和国(第三共和政)が「自由・平等」を守る合理的理念と共に、フランス語を喋り、シャルルマーニュやルイ太陽王、ナポレオンの歴史を誇り、文学や芸術、カトリックの伝統を共有する「民族」意識という超合理的意識を持つようになった。
これらの「ナショナリズム」はドイツその他、当時の後進諸国が、ブルジョワ革命で1つの国へまとまっていく中で、非合理的な歴史、言語、神話、伝説の共有によって、国民意識を作っていく事となった。
この頃から「国家主義」、「国粋主義」、「民族主義」のキーワードが「右翼」を表すようになる。
帝国主義時代になると、経済を軸として植民地の争奪合戦が加速し、資本家、企業同士の競争は国家を巻き込んだものになる。するとナショナリズムは、植民地の獲得と支配で世界を切り分け、資本の戦いに勝ち抜こうとするブルジョワジーと彼らに巻き込まれる国民多数を熱く捉えるようになる。
ここで、他国を敵として、ブルジョワジー以下の国民が団結する国家主義が盛り上がり、民族や言語、歴史、伝統等を軸とする「右翼」的なナショナリズムが高揚する事となる。
これまでにはドレフュス事件が関係している。1894年、フランス参謀本部のユダヤ人大尉ドレフュスが、ドイツのスパイとの容疑で逮捕され流刑された事件である。これ自体は全くの冤罪であり、人権擁護を張った作家ゾラから自由主義者、民主主義者、共産主義者、アナーキストまでがそれに同じた。
この背景には、隣国ドイツへの軍事的敵視、警戒のエスカレートと、ユダヤ人はフランスでも異民族だから信用ならないと言う民族主義的偏見があった。この事件を機として、王政とカトリックの復興を唱えてきた「右翼」は、「ナショナリズム」、「民族主義」、「国粋主義」、「対外強硬主義」と合流しようとした。以降これらが「右翼」の思想となる。