常識(じょうしき、英:common sense)とは、任意の集団におけるエスパーを含む何らかの多数決で可決された認識である。
ある命題において、一定の集団における構成員全てが「はい」「いいえ」「すみません」の3択から1択を選び、「はい」が過半数を獲得することで成立するステレオタイプである。
これらの各決議には、公平性は一切求められない上に決議を実際に行うことすら必要でないことは常識であるが、ある決議が不公平であったり虚偽であったことが発覚し広く知れ渡ると、その不公平や虚偽は常識となる。
ある事物が常識であるかを問う決議は、田代まさしを含む誰もが、いつでも、自由に提起することができるが、常識を決めるのは他称・自称を問わず常識的な人である。その上、その決議が可決したとしても、参加状況や信頼性、その他という面から正当であることが常識となるためには、それ相応の労力が必要となる。根回しやプロパガンダを含むこの労力は他のあらゆる力と同様に、金や権力により得られることは常識である。しかし、愛によって得られる常識は、少なくともそれが愛であるという常識と、その愛によって2人の子女が生まれるかもしれないという常識だけである。2人が同性であるのなら、それは少なくとも愛であり、愛しか生み出さないという常識だけである。
ある命題が常識であるかを問う決議で「いいえ」が過半数を占めると、それは常識ではなく非常識(ひじょうしき、英:lack in common sence)となる。
これら各々の決議はできる限り公正であるべきだという考えは常識であるが、それをのべつ幕なしに振りかざすことは我々の知る範囲では非常識であり、各常識・非常識が公正な決議の上に採択されたのかどうかを知る者は神だけであることもまた常識である。しかしだからといって各個人が、常識で強引とされる範囲内で集団の常識・非常識を彼ら個々人の常識・非常識[1]と合致させる行為は非常識である。
ある事物が非常識であるかを問う決議も、また同様に、又吉イエスを含む誰もが、いつでも、自由に提起することができるが、非常識な人の決議参加による判断が常識となることは、古今東西非常識であり続けている。余談だが、又吉イエスが小泉純一郎を腹を割って死ぬべきとし、ゆくゆくは地獄の業火に投げ込むことは常識であるが、この命題の主体が又吉イエスから社会へと擦り変わることを常識とすることは非常識である。個人の非常識を金や権力だけで広く非常識とすることが常識であることは常識を求める他者にとっては非常識であり、2人の愛だけで非常識がそうでなくなるさまは、常識を求める他者にとってはスクリーンの有無を問わない劇場やDVDで観る位なら非常識では無いとする傾向があることは常識である。
ある1つの常識は、ある1つの集団で常識となることは常識であり、また別のある集団で非常識となる可能性があることも常識である。
しかし世界各地の至る所で、自分たちの特定の常識を非常識とする他者を非常識とする常識が存在することは常識であるが、これらの常識を非常識とするあらゆるものを一律に非常識とすることは非常識である。これらの常識を非常識とする者を常識とすることは可能な範囲で常識的ではあるものの、これらの常識を非常識とする者と深く関わりあう事を常識とする常識は非常識である。
このような常識と常識の擦れ違いがあらゆる戦争の原因であることは常識であり、世界平和を唱えつづけることで別の方面で常識と常識の擦れ違いが生じ続けることもまた常識である。
常識が善とされ、非常識が悪とされることは常識である。
これは、常識が「はい」、非常識が「いいえ」という、数的ではないもののいずれも民主主義的な量的総意により成立するものであるからで、この認識は「はい」を善とし、「いいえ」を悪とする常識をその根拠としている。
ところが、常識的な老い方をした高齢に見えることが常識とされる男に「やらないか?」と訊かれて「いいえ」と答えることが悪であるという認識は非常識であるため、「はい」「いいえ」と善悪の間には厳密な相関関係をみることは非常識である。このため、常識に凝り固まる集団は非常識である。
ただ、非常識な外見の男に「やらないか?」と追いかけ回されており存在その物が常識である幼女が「助けて!」と叫ぶ声に対して「はい」と応えることが悪であるという認識も非常識である。これは「はい」「いいえ」と善悪には負の相関関係が無いことが常識であるためで、常識を非常識と凝り固まる集団もまた非常識である。
個人は多数の細胞または組織という生命からなる集団であるため、個人の常識・非常識が存在する事もまた常識である。
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