日清戦争とは、1894年7月から1895年3月の下関条約締結まで行われた、大日本帝国と大清国との戦争である。韓国では清日戦争、中国では甲午戦争と呼ばれ、英語圏では“First Sino-Japanese War(第一次日中戦争)”と称される。
1871年に日清修好条規を結び、近代的で対等な関係を築き始めた日本と清であったが、その後の琉球処分、江華島事件や朝鮮半島における宗主権をめぐって両国の対立は深まる一方だった。朝鮮内部でも、これまでどおり、清を宗主国として、外国勢力を排除することで朝鮮半島を守ろうとした事大党と、日本との関係を重視し、改革によって独立しようとした独立党が争っていた。
1882年に、壬午軍乱が発生。日本に従事する姿勢を見せた閔氏政権が追放され、一時的に大院君政権が復活した。この時に、日本公使館が襲撃され、日本から派遣された軍事教官が殺害された。しかし、清や日本の軍事的介入により閔氏政権が復活。その後閔氏政権は日本と済物浦(仁川)条約を締結し、賠償金および公使館護衛のための日本軍の駐留を認めた。
1884年、甲申事変が発生する。清仏戦争の隙を狙い、日本と組んだ金玉均、朴泳孝らがクーデターを決行し、閔氏政権の要人を殺害、開花派政権を打ち立てるも、清の介入によって頓挫。金玉均らは日本へ亡命する。(なお、福沢諭吉は金玉均らを支援したが、この事変を見て、脱亜論を発表した。)
翌年、日本と清は天津条約を締結。朝鮮出兵に関する相互通知を定めた。日清両国は事あるごとに朝鮮半島への出兵と干渉を行ってきたが、1894年に甲午農民戦争が勃発。袁世凱が出兵し、鎮圧を図るも、日本軍もこれに介入し、事態を重く見た朝鮮政府は農民軍と講和する。
朝鮮半島は一旦、安定するも、「朝鮮は独立国であり、日本の生命線」と考える日本にとって、「朝鮮は属国」と考える清にとっても快い情勢ではなかった。
同年7月、日本はソウルを占領し、改革派の金弘集らに内閣を組織させる。清の光緒帝は開戦を主張していたが、北洋艦隊の温存を望んだ李鴻章は開戦に消極的だった。また、明治天皇も「これは大臣らの戦争であって、私の戦争ではない」と不快感を示し、初代総理大臣・伊藤博文も慎重派だった。
そもそも、あまり現在の日本では知られていないが、当時の清は、フランスとベトナムの宗主権を争った清仏戦争において、有利に戦いを進め、「眠れる獅子」と評されていた。潜在的な国力は恐ろしい、と言われていたのである。
1894年、日本海軍は黄海において、北洋艦隊に奇襲攻撃を仕掛け、戦艦1隻を沈める。同時に陸軍も動き出し、清の朝鮮駐屯軍と成歓で衝突し、日本軍は勝利をおさめる。8月1日、宣戦布告が行われ、両国は正式に戦闘状態へ突入する。清軍は平城に兵力を終結するも、8月16日に大敗し、潰走する。10月には朝鮮半島において、朝鮮東学党や農民軍が日本軍を攻撃したものの、清との戦争を勝利していた日本軍は万全の状態でこれを殲滅、組織は壊滅する。
その翌日、日本海軍は黄海海戦において、清海軍は主力艦隊3隻を撃沈し、清の敗北が決定的になる。その後、山東半島、遼東半島を占領された清は講和を決意。下関条約を締結した。
そもそも、なぜ日本は数で圧倒的に勝る清に勝てたのか? 答えは近代化である。清もイギリスから軍艦をもらい、近代的な装備をある程度整えていたが、装備だけであって、近代的な軍隊とは言いがたかった。対照的に日本は外国から教官を招き、精神まで近代的な軍隊を作り上げた。
この戦争は「忍耐、苦心して勝った」「白人国家に有色人種が勝利した」日露戦争と比べて、楽だったというイメージが付きまとう。
戦争の結果、沖縄の日本帰属が決定し、日本による台湾の支配が始まった。列強から「眠れる獅子」と評された清はこの敗北によって、分割され、さらに賠償金による負担で崩壊の道をたどる。一方で、賠償金を得た日本はさらなる国力増強に力を注ぐ。朝鮮は大韓帝国と改称され、独立国となったが、同時に日本の保護国となった。
しかし、日本はこれで安泰ではなく、シベリア鉄道の完成によって、アジア方面での南下が可能になったロシアはフランス・ドイツとともに三国干渉し、日本は遼東半島を清に返還する。屈辱を受けた日本は、国民・政府が一丸となって日露戦争へと向かっていった。
なお、日本では日露戦争と比較して「当然の勝利」だと受け止められる戦争だが、敗戦国となった中国ではいまでもなぜ、敗北したのかが重要なテーマとなっている。本格的な中国分割はこの戦争から始まり、また日本も朝鮮という大陸への足がかりを得たことによって、帝国主義的な路線へと進んでいった。