「神? どのゴミのことかね」
~ 神の存在 について、ゴッド・エネル
無神論(むしんろん)とは、宗教、特にキリスト教における神の存在を否定する思想。宗教以外にも、占い、オカルト、似非科学などの詐欺行為を極端に嫌う変態(NEETは除く)的思想でもある。無神論を主張する人々のことを無神論者という。また無神論者は、宗教などに騙されない健全な精神を持った変態(NEETは除く)でもある。
狭義の意味における無神論は、キリスト教における神の存在を否定し、宗教の意義を認めない思想を指す。この世は神が作ったのではなく自然の摂理で出来上がったのであり、人類の発展は神のご加護の賜物ではなく人類の叡智によるものであると主張するが、広義の意味においてはキリスト教以外の宗教の意義を認めない思想をも指す。
また無神論は宗教の範囲に止まることなく、超能力や宇宙人といった超常現象と呼ばれるものを否定し、そういったものを垂れ流す(彼らに言わせれば)低俗なマスメディア、特にテレビ番組やテレビ局をも痛烈に批判するか、それとも(彼らに言わせれば)低レベルなテレビ自体を見ないのでそういうことには関心すら示さない。
このように、無神論は概して科学や人間の力に過信することが多い。それゆえ、「人はその気になれば何でもできる」「科学に不可能なし」と主張するのもこの思想を信仰する人種である。
なお、ネ申を認めない人々(2ちゃんねる排斥論者など)は無ネ申論者として区別される。
勿論、無神論者は金の無心にも応じないし、聊か無神経な輩でもある。
一部の無神論者は神を解ける方程式の未知数と同じように扱って、時間が無限にあれば神(=未知)の存在は消滅するから神はいないと主張する。すなわち彼らには宗教方程式「神=未知」があり、彼らは「人が知的体系を発展させる上では、やがて未知は消滅すると考えている」から神はいないというのである。(神 (無神論)の不在証明のひとつを参照)
無神論は「無宗教」としばしば混同される。
無神論者は神および宗教を完全に否定し、そのために逆説的な意味で宗教に強い関心を持つ者も多い。一方、無宗教者は、宗教は否定しないけれども特定の信仰を持たないか、宗教を否定はしても江原啓之のファンであったりするなど、実際彼らは、宗教とはとても緩い関係にあるのが常である。特に日本においてはこういった無宗教者が多数を占めるのが現状であり、彼らと混同される無神論者は堪ったものではない。
日本における無宗教者は、子どもが誕生すると神社へ行き、結婚式は教会で、死去すると坊主に読経させる。書類の記入欄に「宗教」の欄があると、「仏教徒」あるいは「無宗教」と書くが、葬式以外はほとんど数珠は持たないし、クリスマスやバレンタインデー、最近ではハロウィンが来るとそれらの行事には余念が無いが、だからといって教会には行かず、復活祭やカーニバル(というと彼らは真っ先にリオデジャネイロの、ほとんど裸の派手ハデ腰フリフリねぇーちゃんを思い浮かべる)など、それら以外のキリスト教の行事には全く無関心である。また、「仏教=葬式」との考えが強く、お経となると日蓮宗相手でも「ナンマイダー」、カトリックやプロテスタント、東方教会、結婚式場の教会、関西電気保安協会、牽強付会、統一教会、エホバの証人といった宗派間や正統・異端の違いといった問題に止まらず宗教全般について無知である傾向が強い。
一方、無神論者はそういったイベントを一切否定・拒否している、と言いたいところだが、島国ムラ社会ニッポンにおいては個人の意思は軽視されるため、「概要」で述べたようにいくら無神経でも、付き合い上、内心ではこれを否定しつつも参加せざるを得ないのが現状である(はず)。また、彼らの宗教に関する知識は、(彼らにとっての)敵を知る上で重要であるため、豊富である(はず)。
尚、無宗教と一口に言ってもその考え方には大きな幅があり、上記のような消極的無宗教者もいる一方、無宗教者の中にもほとんど無神論と言って好いような超積極的無宗教者がいることも確かである。しかし、なぜ彼らが自らを「無神論者」と名乗らないのかというと、「無神論者」=「コワイ」「キツイ」「キモチワルイ」の「3K(KKK)」左翼という根強い連想から、自分がそのようなイメージで世間から見られるのを嫌い、「あっ、アカだ」と他人から指で指されるのを避けたいからである。
また、無神論者は無神経、無宗教者は無臭、という違いもある。
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