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ナンセンス

とりあえず、俺の話を聞いて貰おうか。先日な、出勤する時に石川町駅前のガード下で、ホームレスを見かけたんだ。そのホームレス男性で、年の頃は……そうさな、40代後半から60代半ばくらい。まぁ、あぁ言う生活が続いて心身ともに疲労がたまると、人間なんて一気に老けこんじまうモンだから、実際はもっと若いのかも知れないな。まぁともあれ、そんな中年男がもう元の色もわからないくらいに汚れちまった毛布にくるまって、寒そうに震えていたよ。今年の冬は冷え込みも厳しいからなぁ……誰だよ、地球温暖化とか言ってるヤツは。絶対嘘だね、俺は信じないぞ。まぁそれはいいとして、だ。一瞬、そのホームレスと目が合っちまったんだよ。ほんの一瞬だった筈だけど、すごく長く感じたな。あぁ……俺、最近誰かの目を真っ直ぐ見たのって、何年ぶりだろう。女を口説く時だって、あそこまで真っ直ぐ目と目が合わせたこと、ないんじゃないか? まぁ、そんな訳で目が合ったんだが、向こうの方が先に我に返ったみたいで、恥ずかしそうに目を背けた。一瞬見えたの目の輝きが、たちまち陰鬱な色に沈んでいくのがわかった。それで理解できた。ホームレスになりたてのヤツは、他人と目を合わせるのが恥ずかしくてしょうがないらしい。ヤツにしても、うっかり目を合わせちまったんだろうな。そんなところだろう。まぁしかし、いつまでも感傷にひたってもいられない。こっちは仕事があるからな。足早に通り過ぎて、俺は改札をくぐったんだ……

次にヤツと再会したのはそれから3日後、早く出勤するためにまだ暗い内から家を出た日、駅前にやって来たのは、午前5時半くらいだったか、河が凍るほどに冷え込んだ朝のことだった。3日前と同じ場所で、ヤツは死んでいた。血と泥と埃にまみれて、正確に言うなら殺されていた。まだ発見されてから時間が経ってなくて、まだ死体は現場に残されていて、警察があれこれ調べ始めているところだった。辛うじて寒さから彼の身を守っていたであろうあの薄汚れた毛布は、一部焼け焦げた状態で転がっていた。その他にも靴下やらダンボールやらズボンやらが散らばって、どれもひどく破られたり燃やされたりしていた。犯人は特定できていないが、おそらくホームレス狩りのろくでなしどもだろう。くだらねぇ、本当にくだらねぇ事しやがる。腹の底からじわりと湧き起こる何かを辛うじてこらえていると、警察官に声をかけられた。「恐れ入りますが、お知り合いの方ですか?」一瞬だけ考えた。そして答えた。「いや、知りませんね」それだけ言うと、俺は現場を後にして駅へと急いだ。俺には仕事があって、働かなけりゃ食っていけないんだ。













……という訳だ。実にナンセンスな話だが、暇つぶしくらいにはなったかい? 何だよ、意味なんてないさ。意味なんて、どこにもないんだよ。

「世界は美しくなんかない。そしてそれ故に美しい」
    ~ ナンセンス について、The Beautiful World


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