国会議事堂(こっかいぎじどう)とは、現在わが国の国会が開催される建物であり、戦前は帝国議会議事堂として帝国議会が催されていた。それより以前は城として使われていたとされるが、詳しいことは分かっていない。
今日の研究では、少なくとも江戸時代には存在していた事が判明している。しかし、時の権力者がその存在を秘匿とし、一切の情報を封じていたため、ごく限られた幕府要人以外はこの城の存在を知らなかった。そのため、存在が世に知られるようになったのは明治時代のころである。
江戸時代には今のような状態で建っていたと分かっているが、いつごろ建てられたのかは最新の測定技術を以ってしても不明であり、多くの説がある。歴史愛好家の間では、この建物が何時ごろ何の目的を持って建設されたのかということと、邪馬台国が何処にあったかということがよく語られ、日本史の二大論争として知られる。
城の存在を明らかにし、その名を広く知らしめたのは明治時代の政治家でありエロジジイでもあった伊藤博文である。伊藤は長州藩の藩士として江戸幕府倒幕に関わったが、その際に幕府が保有していた機密文章を手に入れ、城が一般民衆の立ち入りが禁じられている江戸城近くの土地に存在していると知った。しかし、幕府の文章の多くは旧幕府軍が持ち出しており、伊藤が手に入れることができたのはほんの一部である。持ち出された文章の中にはこの城がいつごろ建てられたのか、また何の目的を持って建てられたのかが記されている可能性があるが、この文書の行方は分かっていない。伊藤が手に入れることのできた文書も、現在では戦火によってその殆どが失われており、伊藤による著書を通じて知ることしかできない。
1872年、伊藤は限られた資料や旧幕府要人を取り調べ、ついに江戸城から程近い場所に広大な土地を発見、そこの聳え立つ城を発見したのであった。
伊藤はこの城を議会場として使うよう提案したものの、この建物は当時の人々の目から見ても明らかに異質であり、遥か昔からこのような物が存在したことに一種の恐怖感を覚える人もいた。そのため、伊藤は単身この城に乗り込み調査を行ったが、何日しても戻らなかった。10日後に帰還した伊藤であったが、空ろな目をしており廃人のような状態であったと言う。その後、伊藤はこの城について多くを語ろうとしなかったため、中で何がおこったのかは分からない。民衆や政治家の間でも様々な噂が駆け巡り、議会場は今とは別の場所(現在の経済産業省庁舎付近)に建てられ、この城は長い間放置された。
その後、議会場は見学に来ていた埼玉県埼玉県春日部市内の園児の悪戯で炎上してしまったため、新たな議会場を建設することが決定した。しかし、世界恐慌の余波が日本を襲い経済は衰退、満州事変も勃発し、内政・外交ともに困難を極めた。そこで、新たな議会場の建設は断念し、以前の伊藤の案が復活。この城を改装の上、帝国議会議事堂とすることになったのである。
早速改装が始められたが、不思議なことに城内は綺麗であったと言う。作業員4名が行方不明になり、工事を請け負った建築会社の所長が不審死を遂げたものの、改装工事は着々と進み、1936年11月7日ついに落成した。
数百年前に建造されたにもかかわらず、鉄筋コンクリート建てである。階数は地上3階、中央塔が4階、塔屋最上部まで含めれば9階、そして地下1階となっている。内装は全て国産素材が用いられているが、建物そのものについての材料ならびに産地は不明である。
幅は206.36m、奥行きは88.63m、高さは20.91m(中央塔は65.45m)であることが分かっており、延べ床面積は53466平方メートルである。向かって左が衆議院、右が参議院(旧貴族院)とされている。
国会議事堂には多くの謎が存在する。
一つ目は、数百年以上も昔に建てられた物であるにもかかわらず、かなり高度な建築水準をもっていることである。仮に戦国時代~江戸初期に建てられたものだとしても、同じ時期に建てられた姫路城や大阪城などと比べれば、その建築水準の違いは火を見るより明らかであろう。西洋から齎された技術によって建設されたという説があるが、この建物は当時の西洋にも全く無い技術をもってしか建設できないのである。
二つ目は、江戸幕府はどのようにしてこの建物の存在を隠していたかということである。現在では国会議事堂の存在は多くの民衆に知れ渡っており、訪問することさえ容易いが、江戸時代の民衆は存在すら知らず、存在を知った伊藤も見つけ出すのに多くの時間がかかったのである。幕府が付近への立ち入りを禁じていたとは言え、辺り一体は江戸時代から開けており、あのように大きな建物ならば目に入らない方が不思議という訳だ。
三つ目は、調査に入った伊藤、改装中に死亡した作業員、謎の不審死を遂げた社長・・・このようないわく付きの出来事が数多く報告されている。
国会も参照のこと