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歴史

歴史(れきし)とは、世界で最も長いドラマの名称である。現在8028クールと(正確にはもっとある)現代の深夜アニメサザエさんより長く、世界一放送年数が長いドラマであり、現在も常に放送し続けているお化け番組を越えた番組と言われている。出演者はこの世にいた(またはいる)。 また、学校の授業の一つとして数字となんか教養っぽいことを結びつけて喜ぶ語呂合わせあるいはカルタ遊びにも使われている。

その結びつきにおいて、実は源頼朝が悪の帝国を作ろうとして鎌倉幕府を作ろうとしたことや、平城京は立派でもなかったし、そこで鳴いてたのはカラスであった事なんかは完全に無視される。

歴史においては特に殺人が行われたことについて大きく取り上げられ、他はたいていの場合、無視される。特に数千人のを使って数千人の殺人を犯した場合に於いて特に正確に覚えることを要求される。

つまり、歴史に名前を残したければウィキペディアあたりで数千の秀逸記事を書いたり、イグノーベル賞をとったりするような回り道するのではなく、誰かぶっ殺すのが正解って事である。

「誰にだって歴史は創れる。それを記述できるのは偉人だけだがね。」
    ~ 歴史 について、オスカー・ワイルド

概要

黒歴史
このセクションに書かれていることは黒歴史です!
できることなら見ないでおいてあげて!!

歴史とは、本当に事実だったのかどうかは誰にも分からない代物である。と言うことは、結局、歴史とは物語なのである。歴史は人々が作り出した伝承であり、作り話である可能性が非常に高いものなのだ。西洋文明が生んだイデオロギーに過ぎない。悠久の時を刻むと言えど書としての歴史はほんの数十年かもしれない。俗人はそれが分からずマインドコントロールに全身を浸けている。

日本史

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今我々が考えていることも、歴史上では何等大したことではない。

日本の歴史にしても、《日本史》そのものは、まだ200年も経っておらず、2000年なんて世迷いごともいい所である。そもそも、ほんの百数十年前は、琉球もアイヌも日本ではなかったり、朝鮮日本だったりと、メチャクチャである。日本史は、国境線も歴史も伝承を思い付いた通りに並べただけのお話にすぎない。特に日本史の研究は、歴史を専売にしたい歴史学者が、素人を締め出して利益を独占しようと言う絡みの醜い行動に走る傾向があり、近々、公正取引委員会が、日本歴史学会を独占禁止法で告訴する動きを強めていると言われている。

猫耳史

《猫耳史》も同様である。猫耳が生まれたのはほんの数十年前であり、2000年代に入ってから「猫耳物語」しかり「猫耳史」が作られたのである。営みは江戸の頃から行われていた事が確認できるが、歴史そのものが生まれたのは極最近である。しかし書を読んだ者は、永きに渡り人々は世俗的に猫耳を愛でて来たと認識し、世界観を構築するだろう。酷いときは歴史の書を作ってる者に自覚がないから困る。

猫耳、おめでとう

慎んで、《猫耳史》の誕生を祝いたいと思います。この2000年代が君の誕生期であり、産声を上げた永遠の瞬間だ。この時から時間は遡り、過去を食らい始め、未来へと物語を刻んで行くのです。願わくば悠久の時を刻まれることを。

ウィキペディアに投稿できる

本質的にはウィキペディアに投稿しても良い内容なのだが、どうやら、「歴史は物語である」と言うパラダイムを認識する事ができない執筆者群がウィキペディア内で幅を利かせておるため、仕方なく、Egachan Galleryに投稿する羽目となっている。すなわち、この記事の意味は、ウィキペディア内部の歴史認識方法の狭量さを、嘲笑うのが目的なのである。これも一つの歴史だ。

歴史は物語である

歴史は方法論であり、唯一の物ではない事はおろか、自然発生的に物語は形成される。と理解するのがポスト近代人に求められるセンスだ。真理なんて物は最初からねぇ。どれもこれも物語構造を利用して事実を列挙したに過ぎん。時として、虚構の羅列であることも認めなければならない。クレオパトラの鼻が高かったのかどうかは現代人には全く関係の無い話でであり、要は好みの問題なのである。嫌な部分は削っても間違ってはいない。全ての事実を書かなければ歴史ではない、と考えるなら途方もなく不可能な話だ。また逆に、自分が好む物語を描き、歴史を作ってもそれは正しい。本能寺で殺されたのは、徳川家康であっても、現代人にとっては何の不都合も無い。所詮、歴史とは限りなく曖昧なものなのである。アニメ史や芸術史があっても歴史である。(参照:神話学、物語学、語源学、民俗学、歴史学)

中でも天然の歴史は叙事詩と呼ばれ、歴史の中でも上物とされ尊重される。しかし本質的には、どれもこれも叙事詩である。

キクとチカ

キクとチカ

残念なこと

想像以上に記事が本格的で真面目になってしまった。これは本気にしても構わない思考法なので、Egachan Galleryらしくない。しかしこれも一つの歴史だ。

歴史は道具である

世界大戦から冷戦終焉まで

20世紀に置いて、もっとも有効に機能した歴史は、先進各国が近代化を目指し、そして冷戦が終わるまでの歴史である。なお、世界を二項対立に見立てた歴史が機能しなくなった事を「歴史の終焉」と呼ぶ。人々は「大きな物語(歴史)」の中を生きており、数多くの主義を生んだ。代表的なのが資本主義共産主義の対峙である。思想は世界を二分し、地球を西側と東側に分断した。壮大な歴史とイデオロギー合戦を傍目に見ていた後進国は、第三世界と呼ばれ、存在してはいたのだがあまり注目されない、つまりそれが歴史が政治利用の道具であることの証明である。

2007年以降の米国民主党は環境をネタに、またもや歴史を展開している。ホワイト・ペーパーたちはいつも歴史を使い、支配しようとする。ゴアは『不都合な真実』でアジテーションを頑張っている。

日本人の歴史観

明治の日本人は、「日本の歴史を教えて下さい」とお願いをした欧米人に、「歴史はこれから作られるのです」と答えた。その明治のやり取りを、平成の日本人は「自虐的である」とした。自虐と称したのがポイントである。「未だに歴史がない」わけではない。

日本人は歴史の本質を見誤っている。歴史とは、一種の客体的な思考法である、日本は歴史の中にドップリ浸かって生きている。そのため、自虐などと称する。過去から現在までの変化と不変の状態を問うのではなく、自虐という情緒に焦点を置いている。論理や大系を展開させる、歴史的な思考ではない。しかし、系譜は受け継がれている。粋、侘び寂び、萌え、自虐などの営みは絶えていない。が、それこそ歴史を形成しようとしない、むしろ壊して吸収しようとする、神話的で情念の文明文化である証明と言える。

歴史とは二重的なものである。もちろん、現実の記録、史実の蓄積、情報収集という一次的な作業も重要なのだが、二次的に集めた事実を体系化する作業があってこそ、始めて歴史となる。体系化がされなければ、アンソロジーや伝説と呼ばれる。日本ではあまり体系化がなされず、プロジェクトX、偉人伝、神話のように、物語を分類する手法の方が好まれる。

例えば、イタイイタイ病、水俣病、カップラーメンの発明、偉人伝などは、体系となってないので伝説である。また日本人は、歴史では政治動員できなくとも伝説ならば動く。これによって、伝説によるアジテーションは行われる。

明治以降の『伝統』と称される思想は、本来の保守ではなく、「これが保守なのだ」と他者から押し込まれる思想であり『新保守』である。

日本で一般的に歴史と言われるものは、事実であっても体系されてない伝説なのである。

ミルとチカ

西洋の歴史観

西洋では歴史の使い方が上手いので、『貧困を歴史にしよう(英国)』とホワイトバンドキャンペーンをしたり、政治でも頻繁に歴史が使われる。日本でも2000年頃からは歴史を作るようになったが、道具としては、基本無料ソーシャルゲームの版権フリーキャラクターモデル集として使われる位である。これは、日本民主主義が未成熟だからであり、しかし一方で西洋の思考法だけは得ることができた。歴史主義の片鱗を掴んだのだ。

歴史主義の派生として保守主義がある。保守はなにげなく無自覚に生きてきた日常を、体系化させて自覚させる力を持つ。体系化された伝統は革新に対するカウンターにもなる。つまり保守は革新より新しいのである。流転する変化の中で、一箇所に留まろうとする行為は、変化と維持に自覚的でなければならない。自覚的に自らの位置を規定し留まるのは、過去の歴史を知ることから始まる。結果が革新でも保守でも、選択の違いであり本質は同じなのだ。なお、日本に保守が馴染まないのも、根幹を支える歴史主義が脆弱だからなのである。

歴史の改竄

歴史とは勝てば官軍の非常なルールを履行している為か改竄(捏造)を許している。改竄されれば元の歴史はフィクションとなってしまう。情報社会の中で生きる現代人にとっては、騙される危険が常にあるので注意が必要である。なお、これらの行為は多くは人目につかない所(夜、影)で行われるので、「歴史は夜作られる」という名言にもなっている。尚、第二次大戦で有名なウィンストン・チャーチルは戦争に勝利しただけでは飽き足らずにゴーストライターに口述筆記させた自分の本で歴史改竄に挑戦していた

在日

例えば、「在日は強制連行された」がであったと判明した。その時点で歴史の修正が行われ、「日本へ来て一旗揚げようと挑戦した朝鮮人。成功した者もいれば失敗した者もいる」と表記したとしよう。これで歴史は真実となった。本当にそうか? もちろんデタラメである。歴史としては正しく、修正も間違ってはいないが、左翼と結託してデマゴギーを振りまいた史実が抜け落ちている。ここが歴史の厄介な所だ。ある史実が真実であり、むしろ真実に近いからこそ、却ってになってしまうのだ。歴史を活用し、利用する文明人であるからこそ陥りやすい罠なのである。やデタラメの歴史と言うのは、多くは忘れ去られやすい。

なので、デマゴギーを行った事も記述する。しかし、それでは「在日は強制連行された」という言葉は残り続ける。修正とはを消すことではなく、であると記すことにも要求されるのである。すなわち『情報の歴史』である。「現実の歴史」ではないが、情報の歴史には存在する。多くはこの『情報の歴史』は残りにくく、メタ歴史なのだ。情報そのものを取り扱う文学や歴史学では重要な発想法となる。

聖徳太子

聖徳太子が、実在したのか架空の人物なのかを争う研究がある。しかし、史実であっても虚構であっても、語り継がれた事と、疑惑が生まれた事は、いずれも事実である。現在では公教育の教科書には聖徳太子は記載されないが、これはおかしい。たとえ聖徳太子が実在しなかったとしても、人々に語り継がれていた「聖徳太子のイメージ」は確かに存在した。メタ歴史、情報の歴史としては、聖徳太子の存在は真実なのである。紙幣のモデルにもななったその姿を、国民は「これが聖徳太子だ」と信じた。

歴史の哲学

ミルとキクとチカは過去に存在したが、今では存在しない。あるいは存在したとする証明もできない。居ないのである。もしかしたら居たかもしれないが、それは現実から消された記憶であり、居ても記録にはない。

私達は、現前たる歴史は認識できない。過去の歴史のみ知ることが出来る。歴史の内側からは歴史は分からないし、文化の内側から文化を知ることも出来ない。外界からの眼差しを持って、自己の存在を確認する手法を使うのだ。

公教育での論戦

一部では、歴史の政治利用と、歴史の改竄される性質を教えるべきだと言う声もある。成熟社会を生きる現代人にとっては、歴史を唯一ではなく、相対的なものであると認識させるように歴史相対論を教えるべきとする。この目的は二点ある。

ポストモダン的な歴史教育を邪魔するために、『なにが本当の史実なのか言いあう』プロレスじみた論争が行われているが、事実検証に焦点を当てるのは民衆の目を欺いているだけであろう。史実のみを信じる思考は、ドグマティズム(教条主義)に陥いる危険がある、と警鐘を鳴らす。また、メタ歴史教育の本質は、歴史を利用しようとする者達の政治意図を人々に見抜かせる所にある。歴史相対論を主張する勢力は、ポストモダニズム、ルーツオブライト(右翼の原点)、現代思想派、スケプティシズム(懐疑主義)の4つの勢力である。

関連項目


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