自由党(じゆうとう)は日本の政党。明治時代から続く現存する日本最古の政党であり、自称日本最古の政党である日本共産党よりも長い歴史を持つ。
ただし、この政党は表で活動する時期もあるが秘密結社化する時期もあり、直近の例では2017年の衆議院選挙には公認候補者を擁立せずに党員を希望の党に潜入させたり、無所属を装ったりするなど現在でも秘密結社的な活動は続けている。
自由党の結党は1881年にさかのぼる。明治41年である。当時、自由民権運動を展開していた板垣退助が結成した。日本に本格的な近代政党ができたのはこの時が初めてであり、かつ、それが今まで残っていることは世界の歴史でも特筆に値することである。例えば、イギリスにある同名の政党は結成時点こそは今よりも古いものの、かつては二大政党の一翼を担っていたのに今では党名も残さずに他政党に吸収されてしまっている。このことからも、党名を変えずに現代まで存続している自由党の存在が如何に貴重であるかがわかるだろう。
しかしながら、自由党は現在まで存続するために多くの困難を有した。官憲や反対勢力からの攻撃である。このような攻撃を排除するために自由党は幾度も秘密結社化を行うなどの路線変更をしている。
初期の明治政府は自由民権運動を異常なほどに弾圧していた。さらに、自由党は反政府勢力であるとして各地から現状に不満を持つヤクザやゴロツキが参加していた。当初は人数確保のために広く門を開いていた自由党であるが、ガラの悪い党員が暴走して激化事件というものを起こすようになり、官憲による弾圧の口実を与えた上に、国民の間で自由党に対するネガティブなイメージが広まりライバルの立憲改進党に人気を奪われるなどした。
そこで1884年、板垣退助は自由党の秘密結社化を決断する。これは存在自体を秘密にすることにより官憲の弾圧を回避することが出来るうえに、存在が公になっていなければヤクザやゴロツキが内部に入り込むこともなくなるという、一石二鳥の手段であった。表の世界では自由党は解党した、ということにした。
こうして存在自体を秘密にしていた自由党であるが、帝国議会開設も近づいた1890年にルソーヲタクが勝手に「自由党」の名前で活動を始めてしまったため、秘密結社であったはずの自由党の存在が公になってしまった。しかし、前述の通り官憲に睨まれたり国民の間でイメージが悪くなっていた自由党の名前で選挙に出ると、落選の恐れが高い。
そこで板垣退助は慌てて「この自由党というのは立憲自由党という全く別の政党の略称であり、自由党は1884年に解党しています!」と主張して中江兆民の活動をごまかすことにした。そして選挙にも立憲自由党の名前で立候補したがそこには板垣退助も参加しており立憲自由党の正体が自由党であることはバレバレであったものの、誰も気にしないまま選挙で130人が当選し第一党となった。
第一党になり強気になった板垣は気が付いたら堂々と「自由党」の看板で活動するようになり、「立憲自由党」なる党名はなかったことになった。
板垣は伊藤博文に接近するようになるが明治政府はこれまで対立していた自由党との連携には否定的であった。そこで自由党は再度秘密結社化して再び偽装解党を決定、今度はライバルであった大隈重信の立憲改進党の後継である進歩党と組んで憲政党を結成した。
しかし、そこで終わらないのが秘密結社自由党である。自由党の影の代表で会った星亨は板垣以来の方針である伊藤博文との連携を極秘裏に工作していた。そして、第一段階として憲政党を乗っ取って大隈らの一派を追い出し、第二段階としてその憲政党をも解党して伊藤を総裁とする立憲政友会の結党に参加した。
伊藤博文は表向きは立憲政友会の総裁であったが、実権を握ったのは秘密結社ネットワークを持っていた自由党の人間であった。これ以後、自由党の人間は度々政権与党となって自由党に所属している事実を隠したまま日本を裏で支配するようになる。
昭和の大東亜戦争の頃は大政翼賛会に潜り込んでいた自由党であるが、戦後の混乱期のどさくさに紛れて再び表に出ることになった。今度は鳩山一郎が代表となったがGHQに睨まれたので表向きは吉田茂を総裁とし、党名も日本自由党とした。
しかし、鳩山一郎がGHQに睨まれて永田町から追放している間、吉田茂は秘密結社自由党を乗っ取ってしまい、党名も堂々と「自由党」の看板を掲げることにした。自分が率いていた秘密結社が乗っ取られた上にその存在が主に出たことに激怒した鳩山は、対抗して新しくもう一つの「自由党」を作った。そしてかつて「日本自由党」と称していた吉田を総裁とする自由党は吉田自由党と呼ばれ、鳩山を総裁とする新しい自由党は鳩山自由党と呼ばれたがそうすると吉田自由党と紛らわしいので「日本自由党」を名乗ることとなった。
こうして自由党は秘密結社から一気に表舞台に出て来ることとなったが、表面化した矢先に吉田派と鳩山派に分裂してしまうこととなった。最終的に吉田派も鳩山派も「自分たちは表に出るから分裂するのだ、再び秘密結社化した方が立憲政友会時代のように隠然と権力を行使できるに違いない」と判断して両方とも秘密結社化し、最終的に他の党派とともに自由民主党を結成した。そして両者の目論見は当たり、自由民主党に合流して以降数十年の間、彼らは分裂騒ぎを起こさなかったのである。
流れが変わったのは秘密結社自由党の代表に小沢一郎が就任してからである。まだ40代の若さで日本を裏で支配する秘密結社を率いることとなった小沢一郎は、自民党の総裁候補やアメリカの駐日大使が頭を下げるような陰の実力者となった。
そして小沢一郎はこの秘密結社パワーを用いて新進党を結党したが、いまいち国民の支持が集まらなかった。そこで小沢一郎は新進党を解党して再び秘密結社自由党を面に出すことにしたが、お約束通り自由党は再び分裂して小池百合子らが保守党を結成した。
その頃、民主党という政党が力を持ち始めた。そこで小沢一郎は自由党を再び秘密結社化して民主党に合流、民主党が国民の支持を失いかけると今度は日本未来の党に紛れ込んだが代表だった琵琶湖のおばちゃんが役に立たなかったので未来の党を乗っ取って秘密結社の偽装サークルである生活の党にし、さらには山本太郎をも勧誘して生活の党と山本太郎となかまたちを結成した。
そして2016年、小沢一郎は山本太郎に生活の党の正体が実は秘密結社自由党の偽装サークルであるという衝撃の事実を突きつけ、「実は俺は自由党を再び表に出そうとしているのだが、どうだ?」と言った。単なる泡沫政党だとおもって生活の党に合流していた山本太郎は、政党が何度解党されても強制起訴されても小沢一郎が潰れない本当の理由はこの秘密結社を率いているからだと悟り、秘密結社に逆らうのは恐ろしいとして自由党の復活に同意した。
もっとも山本太郎の認識は甘く、最初は自分たちの結社から出て行った小池百合子は敵でむしろ日本共産党や社会民主党と共闘するのが秘密結社の方針であると勘違いしており、自由党の公認候補と共産党や社民党が連携するように調整していたが、2017年の総選挙の直前に小沢一郎が「今回は自由党からは候補者を出さない」と宣言、なんと山本が敵と認識していた小池百合子の希望の党から候補者を擁立するようになった。
このことについて、小池百合子が自由党から離党したのは偽装離党であってじつは小池百合子もこの秘密結社の構成員であるとか、小沢一郎は再び自由党を解党するつもりであるなどと様々な憶測が飛び交っているが、この秘密結社の行動は依然として謎に包まれている。