「何だ!!何が・・・何が起きている!?」
~ 死 について、エンリコ・マクスウェル大司教
「死だ!!死が起きている!!」
~ マクスウェル大司教の驚愕の言 について、モンティナ・マックス少佐
「不幸とは、何かおそろしいものをもたらすもののことである。
死は不幸ではないから、おそろしい何ものももたらさない。
故に死は不幸ではない」
~ 死 について、ヨハン・ゲオルク・アウグスト・ガレッティ
「大丈夫・・・ おっかなくなんかねえんだよ・・・・・・! 俺が・・・ 俺が先に死んでやるっ・・・・・・! 綺麗に死んでやるから・・・・・・・・・! 安心しろっ・・・・・・!
だから・・・・・・ 受け入れてやれ 死をっ・・・・・・! 出来る限り・・・・・・ 温かく・・・ 迎え入れてやれ・・・! 俺の感触じゃ 死ってヤツは・・・ そう悪いヤツじゃない。 出来るさ・・・ お前にも出来る。
俺が見てきた限りじゃ あったかい人間は あったかく死んでいけるんだ。 おっかなくなんかねえんだよ・・・! 銀次・・・。」
~ 死 について、赤木しげる
死(し、Death)とは、美であり、快楽であり、救いであり、解放であり、愛であり、抗議の方法の一つであり、苦しみからの逃げ道であり、生命の理の底辺であり、生命の理の頂上であり、永遠の始まりであり、無であり、有であり、全ての命の向かう場所であり、異世界に行く唯一の方法であり、光を消すことにより新たな世界の光を浴びることであり、無限への終わりである。死んでもいいことは特に無いが、地獄にいけるといういいことがある。また、又吉イエスによって命じられたものは、死ななくてはいけない。
これは、又吉イエスによって「死なされている」のではなく、「快楽を与えてもらっている」ことである。さらに、麻原彰晃のポアでも死ぬことが可能。 また、侍は「切腹」を神聖な「自殺」としていた。(自殺は自らに死を与える事である。)
死は跳躍であり、人間やその他の生物が次のステップに至るためには必ず超えなければならない関門でもある。Egachan Galleryも一度死んでみれば新しい『何か』へと変革を起こす事だろう。007は二度死ぬ。なお、ぽっぽはこれを友愛と呼ぶ。
基本的に、死の定理は3つある。「肉体的な死」「精神的な死」「存在的な死」である。あとこれに、「すべての死」を足して、 「死の4定理」と言われる。
少々異なるが、某アニメのように、デコンポーザーで体とともに存在を消すという方法もある。
「死の79%は着色料で出来ています。死の14%はかわいさで出来ています。 死の7%は白インクで出来ています。」
~ 死 について、成分分析結果
「みんなも一緒に、殺ってみようよ♪」
~ 死 について、ドナルド・マクドナルド
現在致死率はほぼ100%である。2000年に一人くらいの確率で、死亡後に生き返ることがヴァチカン教皇によって認定されている。また、近年行われているバーチャルゲーム化へのシフトにより、仮想的に死亡が体験できる。さらに、経済が悪化し、いわゆるインフレ状態になると、死亡した人間が高確率で蘇ることが確認されている。
極めて高度なエクストリームスポーツである。人は生まれついて即座に死に向かって走り始める。人々は我先にと死への扉を捜し求めるが、多くの人にとっては、それは一生を費やすほど時間のかかることである。そしてその時間が長ければ長いほど、周囲からの賞賛は大きくなる傾向がある。ゴールにたどり着いた者には、惜しみない賞賛と感涙と香典が贈られるが、まれに税務署が参加費を取立てにくることがある。
これとは別に、偉大な宗教者として殉教することを望む人種も存在する。彼らは、常に神の息吹を肌に感じ、自ら殉教者であろうとすることを誇りとし、他者に対して無限の慈しみを与えることが出来る、最も昇華された人類である。