#author("2020-01-28T14:54:00+09:00","default:egashira","egashira") #author("2020-01-28T15:17:18+09:00","default:egashira","egashira") [[Dictionary]] *両班(やんぱん) [#h3a1f548] 両班(りょうはん、양반〈ヤンバン・[[韓国]]〉、량반〈リャンバン・[[北朝鮮]]〉)は、[[高麗]]、[[李氏朝鮮]]王朝時代の官僚機構・支配機構を担った支配階級の身分のこと。士大夫と言われる階層とこの身分とはほぼ同一である。 [[李氏朝鮮]]王朝時代には、良民([[両班]]、中人、常民)と賤民(奴婢、白丁)に分けられる朝鮮王族以外の身分階級の最上位に位置していた貴族階級に相当する。 **概要 [#v8d7fc0a] 王族の次の身分として享受することは享受し、納税・他国の士族が負うような軍役の義務さえなかったため、「[[朝鮮]]の官人はみんなが盗賊」「転んでも自分で起きない」「箸と本より重い物は持たない」と兵役免除、刑の減免、地租以外の徴税・賦役免除、常民に道や宿の部屋を譲らせる権利や家・衣服・墳墓・祭礼などに常民以下に様々な特権を持って、住民から金銭も払わずに収奪していた。30歳になっても笠を被ること(科挙合格)ができない者は12~13歳に笠を被った者から、「童」と呼ばれて下に扱われた。[[イザベラ・バード]]は科挙を通じて「官」になれば、君臨と搾取に没頭するのが茶飯事だったとして、1897年の朝鮮紀行「吸血鬼」に比喩した。マリ・ニコル・アントン・ダヴリュイは『朝鮮事情』で「世界一傲慢な貴族階級」として記録に残している。身分が売買されたために[[両班]]の数は増加し、[[李氏朝鮮]]末期には自称を含め[[朝鮮半島]]の人々の相当多数が戸籍上[[両班]]となっていた。 [[北朝鮮]]では「三大階層五十一分類の上位、[[韓国]]でも[[国会議員]]、[[公務員]]、大学教授、財閥一族を現代の[[両班]]だとの指摘されている。 **両班の由来 [#fac72c51] [[高麗]]が[[国家]]を建設する時、唐・宋の官僚制度を参考にしながら、文臣(文班)と武臣(武班)の2つの班からなる官僚制度を採用した。2の事を両と言う字でも表すためこの2つの班を会わせて[[両班]]と呼んだ。朝儀に際して[[両班]]が東と西に並んだことから、東に列した文班を東班、西に列した武班を西班とも称した。 文班(文臣、東班)は、958年から科挙制度を採用し、科挙の合格者を官吏として登用する制度を取った。しかし、五品以上の上級文臣の子は自動的に官吏になれる蔭叙が行われ、当初から上級官僚の貴族化を促していた。しかし地方では新羅以来の郷里という制度が残され、官僚が入り込めない土着した勢力がその地方を束ねていた地域も多くあった。この郷里達は多くの官僚を中央にも送り出していた。これらの層が[[高麗]]の門閥貴族を形成する。 武班(武臣)は、995年ごろに六衛(軍団)が整理されたのを起源とする。それよりやや遅れて禁軍である二軍が成立される。この武班は基本的に世襲制もしくは兵士からの選抜制になっており、後の軍隊の私兵化の温床となることになった。 [[両班]]には国から田地と柴地が支給されており(田柴科制と言う)、官僚機構を指す言葉だった。[[高麗]]時代の[[両班]]はそれ以降の[[両班]]とはやや意味合いが異なる。 **文臣と武臣の対立 [#ked1b7e4] [[高麗]]は、王族と門閥貴族である文臣が国を支配する構造になっており、武臣は文臣の下に置かれていた(この文臣と武臣の上下関係は[[李氏朝鮮]]でさらに徹底される)。これら文臣による武臣の押さえつけに反発した武臣達が、1170年に反乱を起こし文臣を大量に殺害する事件が発生する(庚寅の乱)。この後、武臣勢力が新王を擁立し政権を掌握する。これより[[高麗]]が元に降伏するまでの間、武人政治が続く。 これは、武臣による宰相職兼任と武臣による軍隊の私兵化・軍閥化を促した。その頂点に立ったのが1194年から始まる崔氏政権である。崔氏はその武力を背景に、王の廃立まで自由にコントロールしていた。事実上の[[国家]]乗っ取りであり、この政権は、[[高麗]]が元に降伏する1259年まで続く。 元が[[高麗]]を服属させると元の命令によって崔氏の私兵集団(三別抄)は解散を命じられる。元に降伏した高麗王は従来の武臣達の私兵を解散させ、新たな国軍を組織し直す必要に迫られていた。これに応じられない武臣達は元に対して反乱を起こした(三別抄の反乱)。この反乱は、1271年まで続くが元によって鎮圧される。これによって[[高麗]]の[[両班]]制度は事実上崩壊する。 代わりに台頭してきたのが中小の地主層を中心とした階級である。これらの階級は[[高麗]]後期よりあらわれ、多くの農地を小作農民に貸し与えそこからの収穫を折半することで収入を得ていた。彼らは事実上崩壊した高麗軍に変わって軍隊を組織し、倭寇や紅巾軍の撃退などを行い、高麗朝廷もその功績を認めざるをえず、[[国家]]から特別の官職が与えられる事になる。 代わりに台頭してきたのが中小の地主層を中心とした階級である。これらの階級は[[高麗]]後期よりあらわれ、多くの農地を小作農民に貸し与えそこからの収穫を折半することで収入を得ていた。彼らは事実上崩壊した高麗軍に変わって軍隊を組織し、[[倭寇]]や紅巾軍の撃退などを行い、高麗朝廷もその功績を認めざるをえず、[[国家]]から特別の官職が与えられる事になる。 [[高麗]]末期にはこれら官職を持つ中小地主が増えていき新たな[[両班]]階級を形成する事になる。文臣と武臣の対立により崩壊しかかっていた[[高麗]]末期の地方制度は事実上これらの地方[[両班]]によって支えられていた。 一方で、武臣に押さえ込まれていた文臣は、三別抄の壊滅により新たな勢力を形成する。これらは新興儒臣と呼ばれた。しかし、在地[[両班]]と違い、彼らは収入源になる田地を必要としたため、これを提供できない[[高麗]]王室に不満を持った。この中の急進派は李成桂の政権を後押しする勢力になる。 **両班階級の成立 [#j7752a33] [[李氏朝鮮]]を建国した李成桂は、[[高麗]]の制度の欠陥を見直すことにし、まず地方で大きな権力を握っていた郷里の追放を試みた。郷里出身の文臣を[[官僚]]から追放し、科挙の受験資格を大幅に制限した。代わりに[[高麗]]末から擡頭してきた新興儒臣や在地地主などの地方[[両班]]などを中心とした勢力が対抗勢力として台頭した。この勢力が今の[[両班]]階級のもとになる。 [[李氏朝鮮]]の制度改革により、従来、文臣と武臣を指していた[[両班]]は、科挙(文科と武科)を受けることの出来る身分を指す言葉になっていく。 [[李氏朝鮮]]の科挙制度は、文人を出す文科と武人を出す武科で構成され三年に一度行われていた。それ以外にさまざまな専門技術職を選抜する雑科が存在した(ここで言う技術職とは、[[日本語]]や[[中国語]]の翻訳技術、医学・陰陽学などの特殊な技術に長けた者の事を指す)。科挙は基本的に良民全体に門戸が開かれていたが、これを受験するためには、それなりの経済力が必要となり、必然と文科や武科の科挙試験を合格し官僚になれたのは、これら[[両班]]階級が大多数だった。こうして[[李氏朝鮮]]では、[[両班]]階級が事実上官僚機構を独占し、特権階級になっていった。 やがて[[両班]]を一番上に、中人(チュンイン・雑科を出す階級)、常民(農民)、賤民と言う四段階の身分制度ができあがった。常民以上を良民と呼び、賤民は良民に戻る事が可能な奴婢(ノビ)とそれも不可能な白丁(ペクチョン)で構成され、居住や職業、[[結婚]]などに様々な制約が加えられていた。奴婢は国が所有する公奴婢と個人が所有する私奴婢にわかれ、市場で売買などが行われた。白丁は、稀に賤民から良人になったケースもあるが、稀有な例である。賤民は八賤、七賤とも言われ、白丁以外には、僧侶、巫堂(ムーダン)、妓生(キーセン)などが含まれる。 これら[[両班]]は、[[李氏朝鮮]]の国教になった儒教の教えのもとに労働行為そのものを忌み嫌うようになった。これが「転んでも自力では起きない」「箸と本より重いものは持たない」と言われる[[両班]]の成立である。 [[李氏朝鮮]]初期の[[両班]]は人口の約3%に過ぎなかったと言われている。しかし、慶長の役や後金の役により身分制度が流動化し、[[李氏朝鮮]]末期には国民の相当多数(地区によっては7割以上)が戸籍上[[両班]]階級だった。現代の[[韓国人]]で、祖先が[[両班]]でないという人は珍しい。ただし、[[北朝鮮]]では逆に[[両班]]という人は少ない。これは[[両班]]がブルジョワジーに属し、共産主義体制の中では労働階級の敵とされるからである。 **身分 [#s4c96489] [[李氏朝鮮]]時代の[[両班]]の身分を法令その他で定義したものは無く、朝鮮王朝の時代が下るにつれ様々な特権などを有し[[両班]]階級を構成したと考えられている。これらは、古い時代の部族の長や地主、[[高麗]]から朝鮮時代にかけて政治家を多く出した名門、優れた儒学者・ソンビを出した家などが次第に[[両班]]と呼びならわされ中人・常民と区別されるに至ったとする。 また、世襲の[[両班]]の嫡子は自動的に[[両班]]になる。中人は数代に渡り、高い地位に昇れば[[両班]]に格上げされる場合がある。常民が[[両班]]になるには、売官(官吏の地位を買う)もしくは[[両班]]の族譜を買う事になる。これらは[[李氏朝鮮]]後期、特に末期に増大する。 [[両班]]の身分は数代に渡り官吏を出せないとその地位を失い(実際は出せなくても[[両班]]の地位は失わなかった、官職には限りがあり多くの[[両班]]は日夜就職活動をしていた)[[犯罪]]や政変などでも常民や賤民に落とされる場合があった(いわゆる没落[[両班]])。[[両班]]の身分や偽の身分証の売り買いが横行したため実際は[[両班]]ではない自称[[両班]]もたくさんいた。 **特権 [#uca26ab6] [[李氏朝鮮]]時代の[[両班]]は、科挙の内、文科・武科を受けて官僚になることができた。中人は雑科のみが受けられ、高位に登る事ができない。常民は科挙を受ける権利を基本的に持たない。この区分は時代が進む内に整備されていったと考えられている。また兵役の免除、刑の減免、地租以外の徴税・賦役の免除。社会的特権として、常民に道や宿の部屋を譲らせる権利やその他、家・衣服・墳墓・葬礼などに対して常民に比べ、さまざまな権利を有していた。 封建制の不在のため、地方の[[両班]]による中央からの自律的な支配や経済政策は見られなかったと言われている。そのため、下層民からの収奪に頼る度合いは大きかったと思われている根拠には実際に[[朝鮮]]を訪れた外国人による著書に加えて、朝鮮王朝末期には[[両班]]層が極端に増えていることから身分だけでその消費生活を類推することは難しいとの見解もある。 ***外国人文献に見る具体的な描写 [#afd78257] 「[[朝鮮]]の災いのもとのひとつに、この[[両班]]つまり貴族という特権階級の存在がある。[[両班]]はみずからの生活のために働いてはならないものの、身内に生活を支えてもらうのは恥じとはならず、[[妻]]がこっそりよその縫い物や洗濯をして生活を支えている場合も少なくない。[[両班]]は自分では何も持たない。自分のキセルですらである。[[両班]]の学生は書斎から学校へ行くのに自分の本すら持たない。慣例上、この階級に属する者は旅行をするとき、大勢のお供をかき集められるだけかき集め引き連れていくことになっている。本人は従僕に引かせた馬に乗るのであるが、伝統上、[[両班]]に求められるのは究極の無能さ加減である。従者たちは近くの住民を脅して、飼っている鶏や卵を奪い、金を払わない。」 「当時はひとつの道に44人の地方行政官がおり、そのそれぞれに平均400人の部下がついていた。部下の仕事はもっぱら[[警察]]と税の取り立てで、その食事代だけをとってみても、ひとり月に2ドル、年に総額で39万2,400ドルかかる。総員1万7,600人のこの大集団は『生活給』をもらわず、究極的にくいものにされる以外なんの権利も特典もない農民から独自に『搾取』するのである。」 RIGHT:— [[イザベラ・バード]]『朝鮮紀行』 #hr 「[[朝鮮]]の貴族階級は、[[世界]]でもっとも強力であり、もっとも傲慢である」 「[[朝鮮]]の[[両班]]は、いたるところで、まるで支配者か暴君のごとく振る舞っている。大両班は、金がなくなると、使者をおくって商人や農民を捕えさせる。その者が手際よく金をだせば釈放されるが、出さない場合は、[[両班]]の家に連行されて投獄され、食物もあたえられず、[[両班]]が要求する額を支払うまで鞭打たれる。[[両班]]のなかでもっとも正直な人たちも、多かれ少なかれ自発的な借用の形で自分の窃盗行為を偽装するが、それに欺かれる者は誰もいない。なぜなら、[[両班]]たちが借用したものを返済したためしが、いまだかつてないからである。彼らが農民から田畑や家を買う時は、ほとんどの場合、支払無しで済ませてしまう。しかも、この強盗行為を阻止できる守令は、一人もいない。」 「[[両班]]が首尾よくなんらかの官職に就くことができると、彼はすべての親戚縁者、もっとも遠縁の者にさえ扶養義務を負う。彼が守令になったというだけで、この国の普遍的な風俗習慣によって、彼は一族全体を扶養する義務を負う。もし、これに十分な誠意を示さなければ、貪欲な者たちは、自ら金銭を得るために様々な手段を使う。ほとんどの場合、守令の留守のあいだに、彼の部下である徴税官にいくばくかの金を要求する。もちろん、徴税官は、金庫には金が無いと主張する。」 「すると、彼を脅迫し、手足を縛り手首を天井に吊り下げて厳しい拷問にかけ、ついには要求の金額をもぎとる。のちに守令がこの事件を知っても、掠奪行為に目をつむるだけである。官職に就く前は、彼自身もおそらく同様のことをしたであろうし、また、その地位を失えば、自分もそのようにするはずだからである。」 RIGHT:— マリ・ニコル・アントン・ダブリュイ『朝鮮事情』