#author("2018-05-17T10:47:52+09:00","","") #author("2018-05-21T09:55:49+09:00","","") [[Dictionary]] *近衛文麿 [#d2743384] |BGCOLOR(whitesmoke):http://images.uncyc.org/ja/thumb/e/e3/Tennnouninnka.jpg/160px-Tennnouninnka.jpg &br;畏クモ[[天皇]]陛下ハ御自ラ全臣民ノ爲ニ本項ノ全内容ヲ天覽遊ハサレタリ|BGCOLOR(whitesmoke):CENTER: http://images.uncyc.org/ja/thumb/4/4f/Naval_Ensign_of_Japan.svg/30px-Naval_Ensign_of_Japan.svg.png &size(20){''大本營認可''};&br;本項ノ全文章及全内容ハ完全ニ正シキ事實トシテ大本營ニ依リ認可セラレタリ全臣民ノ爲ニ畏クモ現人神タル[[天皇]]陛下ハ御自ラ本項ニ御目ヲ通サレ給ヘリ此ノ項目ノ内容ヲ疑フハ現人神タル[[天皇]]陛下ヲ疑フト同義ニシテ誤リタル思想ヲ持ツトセラルヽ場合ハ[[政治]]犯思想犯トシテ内亂罪ノ對象トス| 「オノレ、近衛メ。貴様ノ親戚関係ハ、複雑怪奇ジャ。」&br; ''~ 近衛文麿 について、平沼騏一郎'' 近衛文麿(このえ ふみまろ、1891年10月12日 - 1945年12月16日)とは、[[アドルフ・ヒトラー]]と並ぶ、[[第二次世界大戦]]における二大ちょび髭の一人であり、[[悪魔]]である。また[[Egachan Gallery>FrontPage]]よりも早く、[[日本]]で初めて[[オスカー・ワイルド]]を紹介した偉大な人物であり、さらに貴族院出身の[[総理大臣]]でもあるが、特筆すべきは血筋である。 **概要 [#j4f74864] 1891年、貴族の中の貴族の中の貴族と言える近衛家に生まれる。この近衛家は後陽成[[天皇]]という、一発変換が不可能だからあまり名前を載せたくない名前の[[天皇]]の子孫である。さらに父・篤麿は、第三代貴族院議長を務めている。親戚には井伊家、細川家、毛利家、徳川家とまさにオールスターな一族が揃っている。しかし血統は良くても頭があれだった為、後々新体制作りとやらに参加することになる。 また[[アドルフ・ヒトラー]]にやたら憧れていたのか、[[アドルフ・ヒトラー]]のマネをして、ちょび髭を生やしたり、七三分けにしたり、脱毛剤を使い[[アドルフ・ヒトラー]]の毛髪量を再現しようと試みたりした。しかし[[アドルフ・ヒトラー]]をマネしすぎたせいで、最終的に自殺する所までマネしてしまった。''良い子はマネしないでね!'' また身長は180cm以上との事だが、身長が同じくらいの米内よりもずいぶん背が高く見える写真がある。この事から、[[日本人]][[男性]]で初めて[[ハイヒール]]を履いた可能性がある。 CENTER:http://images.uncyc.org/ja/f/f1/%E8%83%8C%E3%81%8C%E4%BD%8E%E3%81%84%E7%B1%B3%E5%86%85.jpg CENTER:''証拠写真'' **生涯 [#hd5398f1] ***[[悪魔]]文麿、生誕 [#wfc559d7] 1891年。この世に、史上最悪の[[悪魔]]となる子が生まれた。その子は公爵・近衛篤麿と旧加賀藩主の娘の間に生まれ、名は「文麿」と名付けられた。初期設定では、「あやまろ」となっていたが、何処か「謝ろ。」と謝ろうとしているように聞こえたため、[[悪魔]]としては相応しくないとして「ふみまろ」に替えられた。なお、同時期に例の[[アドルフ・ヒトラー]]も生まれている。 しかし1904年。文麿13歳の時、父が多額の借金を残して[[死亡]]。この事は文麿を[[悪魔]]として覚醒させる原因となった。また、母はとっくの昔に死んでいる。この時、金目当ての西園寺公望という人が助けに来た。しかし実際には西園寺は助ける気がなく、むしろ政敵の子である文麿を殺したかったはずである。この事から、実は陰で文麿が[[悪魔]]としての能力を使って、公望を操ったという説もある。 大学では社会主義を崇拝し、かのオスカー・ワイルドの本を訳している。そう、彼が[[日本]]で初めてオスカー語録を作った人物である。この事から、もっと[[Egachan Gallery>FrontPage]]で褒め称えられるべきであるが、やはり[[アドルフ・ヒトラー]]の二番煎じであることから無視されている。 「こんな、[[悪魔]]に翻訳されたくなかった・・・」&br; ''~ 自分の本が近衛によって翻訳されたこと について、オスカー・ワイルド'' ***[[悪魔]]文麿、政界へ [#ad04385f] 25歳になったんで貴族院に入った。俗に言う世襲議員である。今だったら、間違いなく叩かれる。さらに「米英本位ノ平和主義ヲ排ス」と言う頭の固い文章を書き、ユーモアたっぷりの米英人に叩かれる。さらに、貴族院で所属している会が潰れかけと見るや否や親戚の徳川と一緒に、火曜会と言う、火曜日しか貴族院に出席しない会を作り西園寺から叩かれる。 しかし血筋だけが良く、さらに身長が180cm以上だった事で、[[国民]]からは叩かれずに済み「早く、総理になればいいのに」とまで言われた。1933年に、貴族院議長という権力を与えられた。その3年後に陸軍が起こした方の事件が発生し、岡田啓介が「自分のせいだ」と決めつけ辞めてしまった。仕方が無いので西園寺が近衛に「俺と一緒にや・ら・な・い・か?」と頼んだところ、「麿は、[[病気]]だから、やらない。」と断った。 ***[[悪魔]]文麿、首相に [#ec8f46c2] 1937年、45歳の時。軍靴のコツコツとなる音をお構いなしに、首相に就任してしまう。周りの[[人間]]からはタイミングが悪すぎと言われたが、文麿は「陸軍・海軍と軍部を叩けば、[[天皇]]に認められ、摂政になれる」と[[悪魔]]らしいことを思っていたらしい。しかし、摂政になれるのは、[[天皇]]が元服(成人)するまでで、それ以後は関白にしかなられないのである。[[中学生]]ですら知っている事を分かっていないだけに、後々大変な目にあうのである。 そうとも知れず就任した矢先に、突如「麿は、共産党員や、二・二六事件で捕まった連中を釈放したい。」と言い出したのである。これには恩師・西園寺も大反対し、結局撤回したが、彼の虚言癖は孫にも遺伝されてしまった。 同年の7月7日、七夕の日に願い事に「支那征服」と書いた矢先橋の上で大喧嘩が勃発し、日中戦争へと発展した。事件発生当初文麿は「麿は、[[支那>中国]]を征服したいんで、兵を送らふ。」と発言。その後[[国会]]においては「麿は、事件をこれ以上、大きくしとうない。」と言い出すなど、なかなかの秀才ぶりを発揮。しかし今度は、[[中国]]の兵団に4億円近くの予算を献上するなど、一体[[中国]]と対立したいのかそうでないのか、まるで分からない様になってしまった。結局8月9日、[[蒋介石]]が挑発してきたのをいいことに、「麿はやはり、[[支那>中国]]を征服したいのじゃ。」と言い出したのであった。 その後「臣民、みんなで、や・ら・な・い・か?」と言ってみたり、「臣民の電気は、麿の物。」と言って、[[国家]]が[[電気]]を自由気ままに操るようにした。しかし、彼のあやふやさは[[国民]]に不信感を与え、1939年の1月5日に正月中と言うのに、首相を辞任した。 ***[[悪魔]]文麿、班列に [#m8b44983] そうして辞めていった近衛だったが、次のたちあがれ爺さんの[[内閣]]で、「班列」、今で言う無任所大臣、いわゆる閑古職の大臣として入閣した。[[国民]]から見れば、せっかく近衛が辞めて安心した矢先の出来事だった。しかし、組閣後の記念写真撮影の時から首相の平沼と対立する。 そうして辞めていった近衛だったが、次のたちあがれ[[爺さん]]の[[内閣]]で、「班列」、今で言う無任所大臣、いわゆる閑古職の大臣として入閣した。[[国民]]から見れば、せっかく近衛が辞めて安心した矢先の出来事だった。しかし、組閣後の記念写真撮影の時から首相の平沼と対立する。 その原因として考えられるのが、近衛の背が高すぎたために、平沼が「自分より目立とは許せん!」とケチをつけ出したからである。これに近衛が「じゃぁ、俺の代わりに、[[hyde]]を班列にすりゃいいじゃないか」と反論。当時[[hyde]]の存在は微塵もなかった為、平沼は言い返せず、結局喧嘩はおさまった。 CENTER:http://images.uncyc.org/ja/e/ea/%E5%B9%B3%E6%B2%BCvs%E8%BF%91%E8%A1%9B.jpg CENTER:''近衛と平沼が大喧嘩。'' ***[[悪魔]]文麿、二度目の首相就任 [#h46c7226] 1940年7月22日、6か月で辞めると言いだした、米内に代わって首相に就任する。実はその前にもチャンスはあったものの、例の如く西園寺さんが邪魔をしたので、就任できなかったのである。しかしその西園寺がようやく[[死]]に、葬式で「西園寺め、ざまぁみやがれ。麿が次の首相だ!」と言いながら香を遺影に投げつけ、棺桶にGKBRを仕掛けた。大衆から「遂に、近衛は発狂したか。」と言われたが、実はソレは演技であった。万が一西園寺の後継者が出てきたとしても、「[[アホ]]と化した近衛に総理を任せれば、自分の言う通りになるだろう」と思われ、首相に就任できると思ったからである。複雑怪奇ではあるが、そういう作戦を現実に実行したのだった。 二度目の首相就任で、「東[[アジア]]みんなで、や ら な い か」と言ってみたり、今度は、「ウホっ、いい独伊」と言った。また後になかったことにされる、日ソ中立条約なんかも結んだが誰も気にしない。しかしこの[[内閣]]では、[[東條英機]]モドキが、「近衛は[[天皇]]か!?」と突っ込んでみたり、「大東亜、マンセー」と閣議中に突如叫ぶなど、支持率低迷の大きな原因を作った。結局、1941年7月18日に[[内閣]]は総辞職した。が、まだ文麿は[[総理大臣]]であった・・・ ***[[悪魔]]文麿、三度目の首相就任 [#y45161e5] 実は近衛は、[[キチガイ]]の松岡洋右を辞めさせるために総辞職したのだった。しかし、何故一人を更迭するのに総辞職したのだろう。それは近衛が「麿は、総辞職したい気分なのだ」と言ったからである。 この[[内閣]]では、近衛は珍しく「麿は[[アメリカ]]と闘いとうない。」と言った為、日米首脳会談をやることとなった。が、我儘な[[アメリカ]]が、「ミーは[[男]]漁りに忙しいから、会談出来ないネ。」と会談直前に言い出したため、実現はしなかった。それに怒った近衛は、腹いせに陸相([[東條英機]])、海相、外相らを呼び「麿は辞める。あとは、好きに計らえ。」と発言。あっという間に辞めてしまった。1941年の10月18日のことであった。 その後、後継首相を選ぶ[[会議]]では無断欠席し、代わりに91歳にもなる、ぬらりひょんを[[会議]]に繰り出した。しかしぬらりひょんもかなりの高齢で「我は、ぬらりひょん。[[妖怪]]なり。次の首相は、鬼太郎なり。」と認知症を思わせる発言が飛び出し、[[会議]]は混乱した。結局ドサクサに紛れて、[[会議]]に出席していた誰かが「俺がやる」と言ったら、皆「俺がやる」となり、最後に手を挙げた[[東條英機]]が「じゃ、俺がやる」と言ったところ、皆「どうぞ、どうぞ」となり、結果、[[東條英機]]首相が誕生したという逸話がある。 ***[[悪魔]]文麿、[[自殺]] [#pa7f08f5] 戦時中は必死に[[戦争]]を止めさせようしたが(本人談、客観的にはまーったく信用ならず)、他方では[[東條英機]]の首相続投を支持するなど、やはりアヤフヤぶりが目立った。コレを[[米軍]]に目を付けられ、終戦後に戦犯として[[逮捕]]される。が、[[逮捕]]の寸前に青酸カリを飲んで死んでしまった。遺書には、 |BGCOLOR(whitesmoke):麿は、過ちを起こしたかも知れんが、もともと、[[アメリカ]]が話し合わないのが悪いんだ。大体、[[アメリカ]]のパリーだかペリーだが、ポリーだかが、来て、開国させたのが過ちなんだ。というか、[[アメリカ]]に移住しようとした、イギリス人が悪いんだ。いや、その[[アメリカ]]大陸を発見した、コロンブスや、アメリゴ・ベスプッチだか、アメリカデスプッチンだかが悪いんだ。まぁ、麿は[[死ぬ]]から関係ないが。この恨み、孫に晴らさせてもらうわ。| と書いてあった。最後の「孫」とは、熊本の殿様の事を指すものとみられる。 **総評 [#n3c08a81] [[戦争]]を始めた原因とも言える人物だが、その責任を[[東條英機]]に押し付けた。その事から、近衛は何でもかんでも、責任転嫁する人物でああったと評価されている。だが、仮装パーティーで[[アドルフ・ヒトラー]]のマネをしたり、オスカー・ワイルドの素晴らしさにいち早く気づいたりしたことから、[[日本人]]初の[[江頭2:50]]とも言えよう。 **関連項目 [#w360c429] -[[東條英機]] -細川護熙 -責任転嫁 -ライター -[[アドルフ・ヒトラー]] -[[昭和天皇]] -一条兼定