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腐れ韓国の真実史

韓国人は非常に愚かです。韓国人の多くは異常で、非常に好戦的で危険です!! 絶対に近寄らないでください。

姑息な韓国人は頻繁にをつきます。彼らは自分の利益のために他人を欺むきます。そして、韓国人は他人を平気で傷つけます。韓国人の多くは詐欺師です。

韓国人は自分の利益のために歴史を偽造し、捏造します。そして、誤った情報を広めます。注意してください! 騙されてはいけません!

多くの韓国人は怠け者です。彼らは労働を嫌います。過去80年間、韓国日本に謝罪と賠償を要求してきました。そして、彼らは日本から補償を得ることによって労働を避けました。日本から受け取った補償を使用して、彼らは国を繁栄させました。

日清戦争後、韓国は極度の貧困状態にあり、滅亡の危機に直面していました。日本はそんな韓国に同情しました。そして、韓国を併合して救うことにしました。貧しい韓国を併合しても日本にメリットはありません。韓国から収穫するものは何も無かったからです。

怠け者の韓国人は労働を知りませんでした。日本韓国人に労働の価値や意義から教えなければならなかった。それが日本のやった第一の「改善」でした。

日本韓国の農村のあまりの不潔で貧しい様子に呆れてしまったといいます。耕せば耕地になるような場所がたくさんあるのに、韓国人は何もしない。ときたま牛を追いながら耕しているが、それもずいぶん能率が悪い。「自分たちならもっと効率よくできる、見てはおれん」となったのです。それは日本人が満州に行っても同じ光景でした。

韓国は典型的な奴隷社会であった。全人口の30%以上が奴隷であり、奴隷はモノのように売買され、主人のため生涯奉仕しなければならなかった。

驚くべきことに19世紀末の韓国は、人口の半分以上を搾取者が占めるという異常な事態になっていた。

勤労を蔑む者が半分を占め、残りの半分が略奪を受ける社会が、まともな国として成り立つわけがない。産業に必要なインフラ整備も行われない。

500年間、韓国には人間が通れる安全な道路は全くなかった。殆どの河川には橋がなく、鎖国政策をとっていたため港湾施設も皆無に等しかった。

韓国は近代産業国家に必要な準備を一切取ってなかったのだ。

韓国は外国からの情報を遮断しました。そして、近代化の必要性を感じて行動を起こした開化派は保守派に殺されました。

このような劣等国が自らの手で近代化を達成できたとは思えません。

日本ロシアに勝利し、韓国の内政改革に乗り出したからこそ、韓国は近代国家としてスタートできたのです。当時の韓国官僚は、身分階級の頂点を極めていた。そのため、官僚の横暴には目に余るものがあり、下の階級の者に対し生殺与奪の権限を持っていた。

韓国民族は、日本統治時代になって日本に大いに感謝したといいます。理由は日本警察が韓国官僚を取締ったからです。

しかし、韓国人の憲兵や巡査が日本の権力をかりて、民衆への恨みを晴らす怖ろしい状況が起きました。

これが後の日本に対する悪感情を生んだのです。

併合前の韓国の社会経済状態は、日本や欧米に比べて100年以上遅れていた。

そんな中、伊藤博文は「韓国を植民地にはしない」と内外に言ったのに、韓国人は伊藤博文を暗殺し、その犯人を英雄視している。

伊藤博文の本音・信念…「日韓は兄弟であり、韓国を決して他国に蹂躙させない。韓国の独立はしっかり守る」と強調し、韓国皇帝はこれを承認したのでした。

韓国が自力で近代化の努力をしていれば、日本はわざわざ植民地にしなくて済んだのです。

日露戦争後、日本韓国を保護国とした。アメリカのルーズベルト大統領は、もう韓国日本のものと、公使館の閉鎖を決めた。

アメリカが公館を閉めて、韓国はびっくりする。

ルーズベルト大統領に再考を促すが、大統領は「韓国は自主統治も自衛能力も無く、まったく無能だったことがはっきりした」と訴えを退けた。

近代金融制度が未整備だった韓国では、第一銀行韓国総支店が1902年から第一銀行券を発行し、韓国の紙幣として流通した。実質的な中央銀行の役割を日本の民間銀行が果たした。

それ以前は基本的に物々交換だった。米や麻布、綿布などを交換していた。

貨幣経済が未発達で商品の流通が円滑にいかないため、工業や商業はほとんど発達しなかった。工業は農家が副業で行なう手工業程度だった。

イギリス人旅行家イザベラ・バードが1894年に釜山に上陸して見た近代的産業は、すべて日本人の手によるものだった。

銀行業務は東京の第一銀行が引き受け、郵便と電信業務も日本人の手で行なわれている。 韓国人には未知の産業、たとえば機械による精米、捕鯨、酒蔵、フカひれやナマコや魚肥の加工といった産業の導入も日本が行った。

首都ソウルには道路すらなかった。というのも、ソウルの土地はすべて国有地であり、平民が許可を得て土地を借り、建物を建設するには長い年月を必要とした。

そのため、路上の不法占拠が当たり前となり、無許可の建物が林立して道幅はどんどん狭くなったのだ。

いかに都市計画が存在しなかったかがわかる。

鼻が曲がりそうな糞尿の悪臭は、朝鮮半島諸都市の悪しき名物になっていた。

家々から出た汚物は路地の穴や溝に流れ込んだ。

新聞に「平壌の臭気一掃、いよいよ糞尿地下タンクを新設」の記事か掲載されたのは、1938年12月11日だった。それ以前の様子をイザベラはこう記している。

城内ソウルを描写するのは勘弁していただきたいところである。わたしはソウルこそこの世でいちばん不潔な町だと思っていたし、ソウルの悪臭こそこの世でいちばんひどい臭いだと考えていたのである!

三審制の近代司法制度が整備されたえのは、朝鮮総督府時代になってからだ。

イザベラも司法の未整備について記している。

韓国人には独特の処罰方法がある。役所の下級職員が容赦のない笞打ちを行った。罪人を死ぬほど打ちすえる。罪人が苦痛に叫ぶ声は近くのイギリス伝道館の中にまで聞こえてくる。

貧窮する暮らし。百年前、外国人の目に映ったソウルの風景がそうだった。 まだ西洋文明が伝わっていなかったソウルの様子を、英国の女流作家イザベラ・バードはこう表現した。

『泥壁の掘っ立て小屋が軒をつらねるみすぼらしい路地、厚くおおいかぶさった褐色の屋根、汚物と腐ったゴミで悪臭のするミゾ…』

この描写は、日本の植民地に転落する“力なき韓国”を対象にしたものだが、次のような表現は心に刻み込んでおくに値する。

ソウルはすなわち韓国だ。しかしソウルにはいかなる芸術品も無い。古代の遺物もほとんど無い。公衆の広場も無い。きわめてまれに見られる王家の行列以外にいかなる行事も、劇場も無い。ソウルには他国にある文化的魅力に欠けている。

イザベラ・バードは1894年から97年にかけ韓国を旅行し、長編の紀行文を書きました。 時代はちょうど日清戦争(1894~95年)からその後にかけてで、「日韓併合」(1910年)より10年ほど前だ。

彼女の『韓国紀行』は、日本の保護・支配を受ける直前の韓国の事情を、第三者の目で克明に記したものだ。

この本で彼女のことを紹介している駐韓イギリス総領事ウォルター・ヒリアーは、当時の韓国事情をこう書いている。

「現在、韓国が国として存続するには、大なり小なり保護状態におかれることが絶対的に必要であることは明白であろう。日本の武力でもたらされた名目上の独立も韓国には使いこなせぬ特典で、絶対的に腐敗しきった行政という重荷に韓国はあえぎ続けている。最も顕著な悪弊を改革する日本の努力は、いくぶん乱暴に行われはした。しかし、真摯であったことはまちがいない。」

韓国政府は大いにおどろいた。韓国が直面した恐るべき不幸は自らの手で国内治安を維持できなくなったことにある。

韓国が、中国外交で属国としてあれほどの屈辱と忍従の関係を延々と、そしてあれほど嬉々として続けたのはいったいなぜなのか。

それは国内においては地主エリートによる特権階級制度を維持し、それに基づく国内の社会・政治秩序を守り抜くためであった。

この制度は、韓国全体に強固な上下関係を作り出した。

そして、国内で地主エリートが支配する上下関係を維持するため、対外的な中国との上下関係を利用した。

その支えとして韓国国民に対する圧制への服従を受容させるうえで、不可欠のシステムとなっていたからである。

中国を至上の存在と位置付け、国内に序列に基づいた上下関係を設けて統治の維持を図るという政策を韓国が選んだ瞬間から、この国の半永久的な貧困は宿命づけられていた、といわなければならない。

明治の日本に感嘆したイザベラ・バードは韓国にも行っている。家は掘立小屋、悪臭を放つドブ、に名はなく、子を産むとおっぱいをむき出しにする風習はニューギニアにだってない。

奴隷制も生きていて、民の4割を占めた。彼らに人権はなく、両班は懲らしめに縛った小作人の足の間に棒を入れて足の骨を折る拷問をやる。汚職は日常化していた。バードは「内部からの改革は不可能」と匙を投げている。

セオドア・ルーズベルト大統領も実態を知って20世紀早々、韓国にあった米国大使館を閉鎖した。それは前代未聞の「国交断絶」だった。これに韓国が文句を言うと、ルーズベルト大統領は「統治能力も無い。韓国は国じゃない」と答えました。そんな韓国を「日本だけが思いやりをもって接した」と、アメリカ大使のシルが書いている。

日本の福沢諭吉もその一人だ。福沢諭吉は平仮名を真似た諺文を歴史の中から掘り出し、普及させた。ハングルのことだ。

韓国の青年を日本に留学もさせた。しかし韓国人は慶応義塾の金庫を壊して金を盗み、遊びにふけった。

福沢諭吉は「支那韓国に特別の会釈に及ばず」と、失望感を隠さなかったが、平気で恩をあだで返す彼らの習性に多くの日本人は気づかなかった。

中国の属国だった韓国が自主独立国家になったのは、日清戦争で日本が勝ち、清に対して韓国の独立を認めさせた時からである。

その時に大韓民国が成立し、首長が「皇帝」を名乗るようになった。中国の属国である限りは「王」であり、決して「皇帝」にはなれない。

愚かな韓国人は、かつて中国の属国だった事実を認めず、「ずっと自主独立の国だった。それを日本だけが侵略した」と言っている。

韓国の知識人は李朝時代を基礎に近代化があったと主張するが、それは完全なる虚偽である。李朝はインカ帝国のような停滞した時代に過ぎなかった。李朝には車がない。なぜならば、車輪がありません。なぜかというと、曲げ物を作る技術がありませんでした。木を曲げることができないから樽も作れません。焼き物の顔料もありません。

結局、日本の統治によってしか近代化し得なかった。

李王朝は1910年の日韓併合で滅んだ。李王朝は500年もの歴史を持っていたが、不幸にも日本支配によって滅亡した。民族としては痛恨の極みだろう。

しかし、1945年に日本支配から解放された韓国で、王家復興や立憲君主制による再出発の議論はなかった。

このことも“強制の歴史観”からは説明できない。韓国は歴史観で混乱している。

韓国歴史の基礎史料とされる『朝鮮王朝実録』の世宗王の巻には、通信使として1429年に日本に渡った重臣、朴瑞生の報告が載っている。これが本当に面白い。

朴瑞生が特に力を入れた報告は、室町時代の日本の農村で見た揚水水車だった。配下の学生に作り方を学ばせ、王には模型まで提出した。「願わくは、わが村々でも、この模型に沿って水車を製作し、灌漑に利用されんことを…」と進言する。

提案は受け入れられた。だが、彼らがどう頑張っても揚水水車を作れない。次の王、その次の王の時代にも水車を作ろうとするができない。

「曲げ木」の技術もなかったとされるが、水が漏れない桶や樽も作れない。高麗から李王朝初期にかけての漢文の本には、たちが重たい甕を頭の上に載せて、水運びをしている様子が頻繁に出てくる。

朴瑞生の報告から334年が経ったのち、日本に渡航した金仁謙が、旅行中の感想などを書きまとめている。その中で、金仁謙は淀川にあった水車の見事さに感服し、「見習ってつくりたい」と述べている。

つまり、最初の挑戦から334年経っても、朝鮮半島の木工技術では揚水水車を作れなかったのだ。

朴瑞生の報告は広範にわたる。朴瑞生は、「日本は貨幣経済が行き渡っており、大変に便利だ」と述べるとともに次のように進言した。

  1. 日本には銭湯というものがたくさんあり、人々は清潔だ。わが国も銭湯を設けるべきだ。
  2. わが国の市場では、魚も肉も土の上に並べているが、日本には屋根のある商店があり、棚の上に品物を置いている。わが都の一部に同じようなものを作るべきだ。
  3. 日本の川には橋が架かり、通行料を取っている。わが国も川に橋を架け通行料を取ることで、貨幣経済を広げるべきだ。

李王朝時代の文化水準を知ることができる。「日本の併合がなかったら、韓国は自律的発展を遂げられなかった」と言っている。

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上の写真は1880年代のソウル一番の大通り。下の写真は昭和初期のソウルの繁華街。韓国が発展したのは一目瞭然である。

こんな写真を見せられても、韓国は「日本支配時代はそれ以前よりも悲惨な生活だった」と主張している。

韓国よ。「日本に感謝せよ」と、日本人は誰も言ってない。けれども「嘘はつかない」というのが最低限のマナーだ。


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