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[[Dictionary]]

*日清戦争 [#y6764dba]
日清戦争とは、1894年7月から1895年3月の下関条約締結まで行われた、[[大日本帝国]]と大清国との戦争である。[[韓国]]では清日戦争、[[中国]]では甲午戦争と呼ばれ、英語圏では“First Sino-Japanese War(第一次日中戦争)”と称される。

**日清の対立 [#j35a8f67]
1871年に日清修好条規を結び、近代的で対等な関係を築き始めた[[日本]]と清であったが、その後の琉球処分、江華島事件や[[朝鮮半島]]における宗主権をめぐって両国の対立は深まる一方だった。朝鮮内部でも、これまでどおり、清を宗主国として、外国勢力を排除することで[[朝鮮半島]]を守ろうとした事大党と、[[日本]]との関係を重視し、改革によって独立しようとした独立党が争っていた。

1882年に、壬午軍乱が発生。[[日本]]に従事する姿勢を見せた閔氏政権が追放され、一時的に大院君政権が復活した。この時に、日本公使館が襲撃され、[[日本]]から派遣された軍事教官が殺害された。しかし、清や[[日本]]の軍事的介入により閔氏政権が復活。その後閔氏政権は[[日本]]と済物浦(仁川)条約を締結し、賠償金および公使館護衛のための[[日本軍]]の駐留を認めた。

1884年、甲申事変が発生する。清仏戦争の隙を狙い、[[日本]]と組んだ金玉均、朴泳孝らがクーデターを決行し、閔氏政権の要人を殺害、開花派政権を打ち立てるも、清の介入によって頓挫。金玉均らは[[日本]]へ亡命する。(なお、福沢諭吉は金玉均らを支援したが、この事変を見て、脱亜論を発表した。)

翌年、[[日本]]と清は天津条約を締結。朝鮮出兵に関する相互通知を定めた。日清両国は事あるごとに[[朝鮮半島]]への出兵と干渉を行ってきたが、1894年に甲午農民戦争が勃発。袁世凱が出兵し、鎮圧を図るも、[[日本軍]]もこれに介入し、事態を重く見た朝鮮政府は農民軍と講和する。

[[朝鮮半島]]は一旦、安定するも、「[[朝鮮]]は独立国であり、[[日本]]の生命線」と考える[[日本]]にとって、「[[朝鮮]]は属国」と考える清にとっても快い情勢ではなかった。

同年7月、[[日本]]はソウルを占領し、改革派の金弘集らに内閣を組織させる。清の光緒帝は開戦を主張していたが、北洋艦隊の温存を望んだ李鴻章は開戦に消極的だった。また、明治天皇も「これは大臣らの[[戦争]]であって、私の[[戦争]]ではない」と不快感を示し、初代総理大臣・伊藤博文も慎重派だった。
同年7月、[[日本]]は[[ソウル]]を占領し、改革派の金弘集らに内閣を組織させる。清の光緒帝は開戦を主張していたが、北洋艦隊の温存を望んだ李鴻章は開戦に消極的だった。また、明治天皇も「これは大臣らの[[戦争]]であって、私の[[戦争]]ではない」と不快感を示し、初代総理大臣・伊藤博文も慎重派だった。

そもそも、あまり現在の[[日本]]では知られていないが、当時の清は、フランスと[[ベトナム]]の宗主権を争った清仏戦争において、有利に戦いを進め、「眠れる獅子」と評されていた。潜在的な国力は恐ろしい、と言われていたのである。

**開戦~終結 [#y80377c8]
1894年、日本海軍は黄海において、北洋艦隊に奇襲攻撃を仕掛け、戦艦1隻を沈める。同時に陸軍も動き出し、清の朝鮮駐屯軍と成歓で衝突し、[[日本軍]]は勝利をおさめる。8月1日、宣戦布告が行われ、両国は正式に戦闘状態へ突入する。清軍は平城に兵力を終結するも、8月16日に大敗し、潰走する。10月には[[朝鮮半島]]において、朝鮮東学党や農民軍が[[日本軍]]を攻撃したものの、清との[[戦争]]を勝利していた[[日本軍]]は万全の状態でこれを殲滅、組織は壊滅する。

その翌日、日本海軍は黄海海戦において、清海軍は主力艦隊3隻を撃沈し、清の敗北が決定的になる。その後、山東半島、遼東半島を占領された清は講和を決意。下関条約を締結した。

**下関条約 [#sd4b96d6]
-第一条、清は朝鮮国が独立した国家であることを認める。
-第二、三条、清は[[日本]]に、台湾、澎湖諸島および、遼東半島を割譲する。
-第四条、清は[[日本]]に対し、二億テール*1(=当時の[[日本]]の国家予算の4倍)の賠償金を支払う。
-第五条、割譲された土地に住むものは、土地を売却できる。また、二年後も住んでいるならば、日本国民とみなせる。
-第六条、清は[[日本]]に最恵国待遇を認め、沙市、重慶、蘇州、杭州を開放する。
-第七条、[[日本]]は清国内にいる[[日本軍]]を三ヶ月以内に引き揚げさせる。
-第八条、清は[[日本]]の威海衛の一時的占領を認める。また、賠償金の支払いに不備があれば、撤退しない。
-第九条、清は[[日本軍]]の捕虜を虐待、処刑してはいけない。また、[[日本]]に協力した清国民にもしてはいけない。
-第十条、条約批准の日から、戦闘を停止する。
-第十一条、批准は山東省芝罘で行われ、大日本国皇帝と大清国皇帝が行う。

*1 テールは銀払いである。当時の日本円で換算すると3億円(実際は3億6000万円)である。なお、当時の[[日本]]の国家予算は8000万円という時代である(現在の[[日本]]は95兆円)。 [#m674c5be]

**日本の勝因 [#q9595910]
そもそも、なぜ[[日本]]は数で圧倒的に勝る清に勝てたのか? 答えは近代化である。清も[[イギリス]]から軍艦をもらい、近代的な装備をある程度整えていたが、装備だけであって、近代的な軍隊とは言いがたかった。対照的に[[日本]]は外国から教官を招き、精神まで近代的な軍隊を作り上げた。

この[[戦争]]は「忍耐、苦心して勝った」「白人国家に有色人種が勝利した」日露戦争と比べて、楽だったというイメージが付きまとう。

**結果 [#bfd0beba]
[[戦争]]の結果、沖縄の日本帰属が決定し、[[日本]]による台湾の支配が始まった。列強から「眠れる獅子」と評された清はこの敗北によって、分割され、さらに賠償金による負担で崩壊の道をたどる。一方で、賠償金を得た[[日本]]はさらなる国力増強に力を注ぐ。[[朝鮮]]は大韓帝国と改称され、独立国となったが、同時に[[日本]]の保護国となった。

しかし、[[日本]]はこれで安泰ではなく、シベリア鉄道の完成によって、アジア方面での南下が可能になったロシアはフランス・ドイツとともに三国干渉し、[[日本]]は遼東半島を清に返還する。屈辱を受けた[[日本]]は、国民・政府が一丸となって日露戦争へと向かっていった。

なお、[[日本]]では日露戦争と比較して「当然の勝利」だと受け止められる[[戦争]]だが、敗戦国となった[[中国]]ではいまでもなぜ、敗北したのかが重要なテーマとなっている。本格的な[[中国]]分割はこの[[戦争]]から始まり、また[[日本]]も[[朝鮮]]という大陸への足がかりを得たことによって、帝国主義的な路線へと進んでいった。

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