#author("2018-05-17T16:05:41+09:00","","")

#author("2018-05-18T09:05:10+09:00","","")

[[Dictionary]]

*裕仁 [#hfd558cc]
|BGCOLOR(whitesmoke):http://images.uncyc.org/ja/thumb/e/e3/Tennnouninnka.jpg/160px-Tennnouninnka.jpg &br;畏クモ[[天皇]]陛下ハ御自ラ全臣民ノ爲ニ本項ノ全内容ヲ天覽遊ハサレタリ|BGCOLOR(whitesmoke):CENTER: http://images.uncyc.org/ja/thumb/4/4f/Naval_Ensign_of_Japan.svg/30px-Naval_Ensign_of_Japan.svg.png &size(20){''大本營認可''};&br;本項ノ全文章及全内容ハ完全ニ正シキ事實トシテ大本營ニ依リ認可セラレタリ全臣民ノ爲ニ畏クモ現人神タル[[天皇]]陛下ハ御自ラ本項ニ御目ヲ通サレ給ヘリ此ノ項目ノ内容ヲ疑フハ現人神タル[[天皇]]陛下ヲ疑フト同義ニシテ誤リタル思想ヲ持ツトセラルヽ場合ハ[[政治]]犯思想犯トシテ内亂罪ノ對象トス|

「国が亡んだのに、王だけ生きてるなんて滑稽だわ。」&br;
    ''~ [[天皇]]裕仁 について、[[リュシータ・トエル・ウル・ラピュタ]]&br;''

「裕仁は、他人を殺し・全[[人類]]を殺す者であるから、彼らの責任は当然、[[死]]に値する。&br;
従って、裕仁は[[腹を切って>切腹]][[死ぬ]]べきである。&br;
また、裕仁はただ死んで終わるものではない。&br;
彼は無責任な悪人であり、唯一神[[又吉イヱス]]が裕仁を[[地獄]]の火の中に投げ込むものである。」&br;
    ''~ 裕仁 について、[[又吉イヱス]]''

裕仁(ひろひと。西暦1901年4月29日~1989年1月7日)は、[[大日本帝国]]の第3代[[独裁者]]で、ラストエンペラー。自称第124代[[天皇]]でもあるが、その実態は正統な南朝[[天皇]]から不法に帝位を奪い[[国民]]を欺いている僭主である。愛称は盟友に因んでヒロヒトラー。

「迪宮裕仁」(みちのみやひろひと)が幼名であり、「昭和天皇」(しょうわてんのう)は死後に命名された追号である。
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|BGCOLOR(cornflowerblue):CENTER:''第4回 (1945年)&br;[[エクストリーム・謝罪]] 優勝プレイヤー''|
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|BGCOLOR(cornflowerblue):CENTER:''第5回 (1946年)&br;[[エクストリーム・謝罪]] 優勝プレイヤー''|
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CENTER:http://images.uncyc.org/ja/f/ff/%E3%83%92%E3%83%AD%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC.jpg
CENTER:''よくあるヒロヒトの姿''

**生涯 [#ic700fd5]
***少年期 [#p10c351d]
統仁(孝明[[天皇]])は曽祖父。睦仁は祖父。嘉仁は父。秩父宮は最初の弟、高松宮は二番目の弟、三笠宮は三番目の弟。明仁は息子、美智子は嫁。徳仁は孫息子。

裕仁の歪んだ性格は、父・嘉仁からの愛情に餓えた幼少期に形成された。現人神である嘉仁はよくチクワで野鳥観察を行っていたが、肉眼で裕仁の顔を見た事は一度もなかった。

***[[独裁者]] [#m83cc3b9]
25歳の時に父の[[天皇]]嘉仁(追号:大正[[天皇]])が死ぬと、[[天皇]]に即位して[[独裁者]]となった。[[天皇]]裕仁は即位すると、「“大正16年”を“昭和2年”に変更する。俺の治世を“昭和N年”と呼べ!文書も全部“昭和”に書き換えろ!」って全帝国臣民に命令した。これにより、“明治60年”“大正16年”“西暦1927年”“皇紀2587年”に相当する年の日付は、全て“昭和2年”に変更された。盟友の[[アドルフ・ヒトラー]]ですら、「俺が総統に就いた西暦1933年を“ハイル元年”に変更する。俺の治世を“ハイルN年”と呼べ!そして、次の総統が就任したら、“ハイル”とは別の時代名に変更しろ!」とはしなかったのである。

[[独裁者]]になった裕仁は、第二次[[世界]]大戦までの軍国化と強圧政治を推進した。戊辰[[戦争]]から60年後(西暦1928年、当時27歳)には、長州人の田中義一首相と一緒に民主化運動家を大量投獄し、''「[[天皇]]様に逆らう者は殺す!」''って宣言した。しかし、田中義一が張作霖爆殺事件で不始末を起こすと、これに業を煮やした裕仁は田中首相を更迭した。その後も、浜口雄幸首相がロンドン海軍軍縮条約を結ぶと、陸軍が「[[天皇]]様の統帥権を侵害するのか!」って激怒。これは、嘉仁が第一次[[世界]]大戦で統帥権を行使できなかった事への報復である。当然、統治権を一握りする「[[ネ申>神]]」である裕仁は、軍首脳に与して、軍首脳のやりたい放題を放置した。こうして、子分の関東軍や特高[[警察]]を使い、[[アドルフ・ヒトラー]]や[[ヨシフ・スターリン]]や[[毛沢東]]も顔負けの白色テロと大量殺戮を国内外で展開した。

バリバリの鷹派[[政治家]]としても有名であり、西暦1932年(当時31歳)の満州国樹立では「勇猛果敢な追撃に満足する。」って言い放ち、西暦1937年(当時36歳)に日中[[戦争]]で南京を攻め落とした時には「深く満足に思う。」って言い放った。裕仁の圧制を見聞した[[蒋介石]]とホー・チ・ミンは、「[[日本]]は[[警察]][[国家]]、特高の[[国]]だからね。」って嘲い倒した程である。

西暦1940年(当時39歳)夏には、「インドシナを[[フランス]]の圧制から解放せよ!」という美名で、[[大日本帝国]]軍をインドシナに送り始めた。[[フランス]]がナチスドイツに侵略されて動揺しているのを後目にした行動である。そして、その年の秋には日独伊三国同盟(いわゆる桃園の誓)によってナチスドイツの[[アドルフ・ヒトラー]]、イタリア王国のヴィットーリオ・エマヌエーレ3世と義兄弟の契りを結んだ。特に[[アドルフ・ヒトラー]]とは「[[おまえ]]」「[[あなた]]」と呼び合う仲であり、そのいちゃつきぶりに、[[アドルフ・ヒトラー]]の敵将である[[ヨシフ・スターリン]]やドゴールや[[蒋介石]]はいつもやきもきしていた。但し、日中[[戦争]]が始まった当初、[[アドルフ・ヒトラー]]は[[蒋介石]]を援助していたが、[[天皇]]教を猿真似したい[[アドルフ・ヒトラー]]は、[[蒋介石]]を切り捨てて、[[天皇]]裕仁に寝返った。この時、[[蒋介石]]は「[[アドルフ・ヒトラー]]の野郎、今に見ておれ!」と報復を誓った。この時、[[蒋介石]]と手を結んだ者が、[[美しい国>アメリカ合衆国]]のフランクリン・ルーズベルトである。又、[[アドルフ・ヒトラー]]が特注ポルシェを裕仁に贈った事は、裕仁と[[アドルフ・ヒトラー]]の睦まじさを物語る有名な話である。

西暦1940年(当時39歳)夏には、「インドシナを[[フランス]]の圧制から解放せよ!」という美名で、[[大日本帝国]]軍をインドシナに送り始めた。[[フランス]]がナチスドイツに侵略されて動揺しているのを後目にした行動である。そして、その年の秋には日独伊三国同盟(いわゆる桃園の誓)によってナチスドイツの[[アドルフ・ヒトラー]]、イタリア王国のヴィットーリオ・エマヌエーレ3世と義兄弟の契りを結んだ。特に[[アドルフ・ヒトラー]]とは「[[おまえ]]」「[[あなた]]」と呼び合う仲であり、そのいちゃつきぶりに、[[アドルフ・ヒトラー]]の敵将である[[ヨシフ・スターリン]]やドゴールや[[蒋介石]]はいつもやきもきしていた。但し、日中戦争が始まった当初、[[アドルフ・ヒトラー]]は[[蒋介石]]を援助していたが、[[天皇]]教を猿真似したい[[アドルフ・ヒトラー]]は、[[蒋介石]]を切り捨てて、[[天皇]]裕仁に寝返った。この時、[[蒋介石]]は「[[アドルフ・ヒトラー]]の野郎、今に見ておれ!」と報復を誓った。この時、[[蒋介石]]と手を結んだ者が、[[美しい国>アメリカ合衆国]]のフランクリン・ルーズベルトである。又、[[アドルフ・ヒトラー]]が特注ポルシェを裕仁に贈った事は、裕仁と[[アドルフ・ヒトラー]]の睦まじさを物語る有名な話である。


西暦1941年(当時40歳)には、植民地を手放したくないABCD4ヶ国が、[[大日本帝国]]に[[経済]]封鎖を行った。これにブチキレた裕仁は、12月開始で真珠湾攻撃とマレー沖海戦を命令し、本格的に第二次[[世界]]大戦に参加した。こうして[[アジア]]太平洋侵略[[戦争]](25mバタフライ競争;裕仁は第三コース)を仕掛け、[[天皇]]教に逆らう数百京(当時の[[人類]]の約99.99%)の[[アジア]]やオセアニアの人民の生を奪った為、国内外から大怪獣ヒロヒトラー(Hirohitler)と呼ばれて恐れられた。

[[戦争]]末期の西暦1945年(当時44歳)2月になると、子分の近衛文麿が、「いい加減に[[戦争]]を止めたらどうだ。そのうち蘇連邦軍も[[戦争]]を仕掛けるだろうから危いぞ。同盟国ドイツの状況を見ろ。」って裕仁に諌言した。しかし、裕仁はこの諌言を無視し、裕仁と彼の側近(特に[[岸信介]]や松岡洋右など長州人)は「国体護持」って妄言を吐いた。この結果、首都・東京を筆頭に、[[日本]]中が空襲で焼け野原になったのである。そして、西暦1945年4月28日には、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の子分であるベニート・ムッソリーニ将軍が、パルチザンに射殺された。その2日後の4月30日には、盟友の[[アドルフ・ヒトラー]]は、「裕仁、後は頼む…。」と言い遺して[[自殺]]した。その8日後の5月8日に、ナチスドイツは敗北を宣言して死滅した。

[[戦争]]末期の西暦1945年(当時44歳)2月になると、子分の近衛文麿が、「いい加減に[[戦争]]を止めたらどうだ。そのうち蘇連邦軍も[[戦争]]を仕掛けるだろうから危いぞ。同盟国[[ドイツ]]の状況を見ろ。」って裕仁に諌言した。しかし、裕仁はこの諌言を無視し、裕仁と彼の側近(特に[[岸信介]]や松岡洋右など長州人)は「国体護持」って妄言を吐いた。この結果、首都・東京を筆頭に、[[日本]]中が空襲で焼け野原になったのである。そして、西暦1945年4月28日には、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の子分であるベニート・ムッソリーニ将軍が、パルチザンに射殺された。その2日後の4月30日には、盟友の[[アドルフ・ヒトラー]]は、「裕仁、後は頼む…。」と言い遺して[[自殺]]した。その8日後の5月8日に、ナチスドイツは敗北を宣言して死滅した。


ナチスドイツが潰れても、裕仁は終戦を躊躇し続けた。その最中の7月26日、[[蒋介石]]やトルーマンなど敵将たちは、「[[天皇]]教を放棄しないと、貴様の先祖の土地を焼き拂うぞ!」と警告した。しかし、裕仁はこれを無視。スイスで行なわれていた藤村義朗とアレン・ダレスの懸命の終戦工作さえも踏み潰した。その結果、8月上旬には、[[美軍>アメリカ合衆国]]が広島と長崎に秘密兵器「[[原子爆弾]]」を投下した。この時、植民地朝鮮、植民地台湾、[[中華民国]]、東南[[アジア]]、オセアニアの民衆は、「ざまあみろ!」「[[天皇]][[国家]]もお終いだ!」と歓喜の声を上げた。秘密兵器「[[原子爆弾]]」でやっと目を覚ました裕仁は、西暦1945年8月14日に、[[蒋介石]]やトルーマンといった敵将たちにギヴアップを宣言。そして、8月30日にはダグラス・マッカーサー率いる占領軍が[[大日本帝国]]に上陸し、9月2日に裕仁は外交文書でギヴアップを正式宣言。こうして、明治維新で生まれた「万世一系の現人神である[[天皇]]が治める[[神]]の国」[[大日本帝国]]は[[美軍>アメリカ合衆国]]に占領され、主権を失ったのである。[[大日本帝国]]、享年77歳。

ナチスドイツが潰れても、裕仁は終戦を躊躇し続けた。その最中の7月26日、[[蒋介石]]やトルーマンなど敵将たちは、「[[天皇]]教を放棄しないと、貴様の先祖の土地を焼き拂うぞ!」と警告した。しかし、裕仁はこれを無視。スイスで行なわれていた藤村義朗とアレン・ダレスの懸命の終戦工作さえも踏み潰した。その結果、8月上旬には、[[美軍>アメリカ合衆国]]が広島と長崎に秘密兵器「[[原子爆弾]]」を投下した。この時、植民地朝鮮、植民地台湾、[[中華民国]]、東南[[アジア]]、オセアニアの民衆は、「ざまあみろ!」「[[天皇]][[国家]]もお終いだ!」と歓喜の声を上げた。秘密兵器「[[原子爆弾]]」でやっと目を覚ました裕仁は、西暦1945年8月14日に、[[蒋介石]]やトルーマンといった敵将たちにギヴアップを宣言。そして、8月30日にはダグラス・マッカーサー率いる占領軍が[[大日本帝国]]に上陸し、9月2日に裕仁は外交文書でギヴアップを正式宣言。こうして、明治維新で生まれた「万世一系の現人神である[[天皇]]が治める[[神]]の[[国]]」[[大日本帝国]]は[[美軍>アメリカ合衆国]]に占領され、主権を失ったのである。[[大日本帝国]]、享年77歳。


***ホワイトハウスの犬 [#v3886b9a]
狡猾な裕仁は、白色テロと大量殺戮の責任を、子分である近衛文麿や[[東條英機]]や[[小磯国昭]]などになすり付けた。第二次[[世界]]大戦で敗れた西暦1945年の12月16日に、近衛文麿は、「[[天皇]]が罪に問われませんように」って言い遺して[[自殺]]した。そして、[[東條英機]]は、西暦1948年12月23日に、「[[天皇]]陛下万歳」と言い遺して墓場に突き落とされた。要するに、近衛や[[東條英機]]は、裕仁の「身代わり」で死んだのである。

圧倒的多数の勝戦国の権力者と民衆は、「最高権力者である[[天皇]]裕仁を始末しろ!」って主張した。そりゃあ、[[大日本帝国]]憲法に「[[天皇]]ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬ス」「[[天皇]]ハ陸海軍ヲ統帥ス」って書かれてるし、この憲法に則って開戦を命じた者も[[天皇]]裕仁なんだから。ところが、「[[日本]]版辛亥革命」こと乙酉革命を起こしたダグラス・マッカーサーは、勝戦国・敗戦国ともども民衆と[[政治家]]が主張した裕仁の殺害を拒否し、「溥儀みたいな再利用廃帝にすれば好い」って主張した。

CENTER:http://images.uncyc.org/ja/4/43/Hirohito_and_makkakka.jpg
CENTER:''マッカーサーの右に立つ裕仁。孫文の右に溥儀が立ってるのと同じだな!''

なおこの頃本来の皇位継承者である熊沢[[天皇]]に対して、御用学者と[[マスコミ]]を使い、いけしゃあしゃあと「彼こそ自称[[天皇]]であるという」[[プロパガンダ]]を行い、更に[[GHQ]]の力も利用して弾圧を行っている。

その後マッカーサーが率いる革命軍は、江戸城乗っ取りから丁度79年後の日である1947年5月3日に、「国民が[[主人公]]」を明記した[[日本国]]憲法を成立させて[[日本国]]を法的に樹立し、皇位僭称者による独裁国家・[[大日本帝国]]に引導を渡した。

ところが、裕仁は、[[日本国憲法]]によって権力を剥奪されたが、マッカーサーの温情(と、言うのは名目で実際は絶大な力を持つ熊沢[[天皇]]が即位する位ならヒロヒトを再利用したほうがマシ、という[[GHQ]]の方針による)で、[[国民]]の意思でいつでも廃止できる「新国家・[[日本国]]の象徴君主」に居座った。裕仁を溥儀に置き換えると、[[大日本帝国]]では清朝の最高権力者で、[[日本国]]では満州国の傀儡君主ってことになる。

CENTER:http://images.uncyc.org/ja/0/0b/Hirohito_and_Hideki.jpg
CENTER:''裕仁:「悪ヒガ君(東條)ハ死ンデモラフシカナヰ。」''

同盟国であったイタリア王国では、裕仁の盟友であったエマヌエーレ3世は、西暦1946年5月9日に廃位され、国外に追放された。息子のウンベルト2世が即位したものの、彼も僅1ヶ月後の6月12日に廃位され、国外に追放された(サボイア一家の帰国は孫のヴィットーリオ・エマヌエーレの代まで許されなかった)。こうして、イタリア王国は倒され、イタリア共和国が立てられた。

ところが、乙酉革命で裕仁に与する旧国家軍(吉田茂、文部省など)は、「[[大日本帝国]]は亡びぬ。何度でも甦るさ!」って敗け惜しみを吐き、[[日本国]]憲法によって失効した「昭和」の元号を使い続けた。吉田茂は、革命軍に媚を売っただけではなく、権力を剥奪されたはずの裕仁に対して「臣 茂」って自称した。ところが、[[中華ソビエト共和国>中国]]が誕生すると、革命軍内の美国は旧国家軍に寝返り、革命軍は分裂して敗北した。

裕仁も裕仁で、子分たちを[[美軍>アメリカ合衆国]]に売り渡して[[[[死刑]]]]を免れた後も、マッカーサーに対して何度も諂い、「我が[[天皇]]を[[美しい国>アメリカ合衆国]]に護ってもらいたい。その為なら[[核>核兵器]]も基地も厭いません。」「琉球なんて、条約作ってずっと[[美しい国>アメリカ合衆国]]の軍事占領下に入れて結構です。最低でも50年」って言い放った(沖縄メッセージ)。このように、[[日本国]]での裕仁は、統治権を持たない「象徴君主」なんかじゃなく、統治権を行使して[[美国>アメリカ合衆国]]の傀儡国家を作った「統治者」だったのである。そして、マッカーサーが撤退した後、西暦1968年(当時67歳)に明治維新100周年の[[イベント]]が開かれると、この[[イベント]]にヌケヌケと参加し、明治維新によって生まれた[[大日本帝国]]の復活を[[妄想]]した。

西暦1975年(当時74歳)には、「原爆を受けたのは止むを得なかった。」「責任?そういう言葉のアヤについては、自分は文学者じゃないから答えようがない。」って、裕仁は平気で言い放った。正に、真の売国奴である。真の愛国者は、[[政府]]が誤った方向に行かないように諌言できる者を指すのであって、これは[[産経新聞]]などの右翼が「売国奴」「反日分子」って罵倒する[[人]]たちである。裕仁をヨイショする右翼こそ、「売国奴」「反日分子」なのである。裕仁と同じく、[[[[死刑]]]]を免れた子分には[[岸信介]]がいた。勿論、広島市民と長崎市民は大噴火し、「[[天皇]](裕仁)を引摺り下ろして、広島と長崎で市中引き回しにしろ!」って[[日本国]][[政府]]に苦情を出した。これ以後も[[死ぬ]]まで、[[天皇]]裕仁は広島と長崎の爆心地を一切見なかった。

***晩年 [#wf8bf465]
1988年9月19日に血を吐いてからは、[[日本]]の全[[テレビ]]が体温やら血圧やら脈拍やら今日の運勢やら細かい病状を一々(空いた時でも24時間おき、ひどい時は数時間おきに)[[報道]]し、献血は湯水のように裕仁に注入された。この時、[[日本国]]民は忌まわしい自粛ムードを強いられた。そして、西暦1989年1月7日、ベニート・ムッソリーニみたいに[[国民]]に吊るされる事もなく、自宅でのうのうと死んだ。享年88歳。裕仁が死んだ時(Xデー)には、あの[[テレビ]]東京を含めて全[[テレビ]]局が平常番組を中止して、裕仁追悼番組(いわゆるLive 8)を一日中も延々と垂れ流した。このため、後半になると「裕仁って誰だっけ?」という記憶障碍が惹き起こされた。しかし、裕仁はこれを命じた時に半笑いであったというのは有名な話である。いい加減に飽きた[[国民]]はレンタルビデオ店に駆け込み、貸し出し中だらけになった。そして、[[新聞]]は、[[天皇]]裕仁の積悪を断罪した赤旗だけが、飛ぶように売れた。

[[テレビ]]だけならまだしも、[[日本]]歌謡大賞と高校ラクビーは中止になるわ(ラグビーは決勝戦進出の両校が同等優勝になった)、大相撲や高校サッカーが順延されるわで、当時の[[高校生]]などの夢を奪った。しかし、沢村栄治など多くのアスリートは、[[天皇]]裕仁が惹き起こした[[戦争]]によって殺されたのである。[[天皇]]賛美[[報道]]が怒涛のように流れた時、沢村栄治の弟の孫たちは「祖父ちゃんの兄の敵、絶対に許さん!」「“昭和N年”なんて使いたくない!」って喚き散らした。又、これらのスポーツイベントの中止や順延は、病床の[[天皇]]裕仁が命令したのではなく、[[天皇]]ベッタリの御用[[マスコミ]]が命令した。この時、後に総理になる小渕恵三はラグビーが中止になったことを知らず、一人で花園に行き「平和に成ったなぁ~」といって年号が「平成」になったとか。

CENTER:http://images.uncyc.org/ja/d/d5/%E5%B4%A9%E5%BE%A1.jpg
CENTER:''このときはnnnnnnnnn[[NHK]]ではなく、このテロップが流れた。''

広島と長崎の爆心地に近い[[小学校]]では、三学期の始業式(1月9日 月曜日)の時、児童一同・教師一同は、[[天皇]]裕仁のせいで爆殺された児童たち・教師たちに默祷した。この時、「ヒロヒトが国体護持に拘らなければ、ヒロシマとナガサキの惨劇は起こりませんでした。」って、校長は児童に語りかけた。[[天皇]]裕仁の葬儀に対しては、[[世界]]各国の民衆が、「戦犯ヒロヒトの葬儀に行くな!」「[[アドルフ・ヒトラー]]の葬儀に行くのと同じだろ!」って抗議した。しかし、蓋を開けて見れば、父ブッシュやフランソワ・ミッテランを筆頭に[[世界]]の主要国の大統領・首相から[[国際連合]]事務総長、果ては[[中華ソビエト共和国>中国]]外務大臣までが参列し、[[世界]]の[[独裁者]]たちには意外と人気者だったことを見せ付けた。「俺もヒロヒトのような[[独裁者]]になりたい!」って思ったのであろう。

[[天皇]]裕仁を最後に、[[第二次世界大戦]]の最高権力者は全て死んだ……ごめん[[ウソ]]。本当はまだルーマニア元国王のミハイ1世がしぶとく生きてるし、ブルガリア元国王のかつての幼君シメオン2世も実権はなかったけど今なお存命なのだ。それはさておき、皮肉にもこの裕仁が死んだ西暦1989年は、勝戦国が敗戦国に建設したベルリンの壁が破壊されるなど、ヨーロッパで[[第二次世界大戦]]の残滓が消え去った年でもあった。又、[[天皇]]裕仁の[[死]]で荒れ狂った[[天皇]]賛美ムードが、東欧民主化革命の要因になったことは言うまでもない。

***死後 [#y9b9f5cf]
裕仁の死後、森喜朗など[[大日本帝国]]の復活を狙う奴らは、裕仁の誕生日を「みどりの日」として祝日として残したが、西暦2007年には「みどりの日」を「昭和の日」に正式に改名した。

なお、この件に関して、翠星石は、「みどりの日は翠星石の日ですぅ! 勝手に変えんなですぅ!」と非常に怒っている。又、4月29日生まれの[[日本国]]民は、「『みどりの日』から『昭和の日』に変更って、一体何なんだ?俺たちを愚弄してんのか!」って怒っている。

**裕仁と特高と右翼と楽しい仲間たち [#r12d5618]
主な残虐行為として「ピンポン奪取」が行われたのもこのころであり、今も少年[[少女]]の心をつかんで離さない憧れの挫残虐っぷりを見せていた。(巷でよく見かけるピンポンダッシュは奪取できないチキンどもが少しでもヒロヒトになりたいが為に行う模倣行為である。)

このような[[天皇]]裕仁に共感した特高[[警察]]が最初に行ったことは、じゃんけんで負けたものが[[ロッテリア]]に行き「マックシェイクください」という残虐行為であった。この残虐行為は、ヒロヒトが痛く気に入っていた[[モスバーガー]]では行われることは無く、この残虐行為で捕まった特高[[警察官]]の藤田田が後に[[マクドナルド]]で洗脳され、会長にまでなったのは言うまでも無い。

CENTER:http://images.uncyc.org/commons/7/7e/Nazi_grues.jpg
CENTER:''[[日本放送協会]]から出征する凶悪なヒロヒトの軍隊、どーもくん。''

**性格 [#he391de7]
-臣民の血税を使って放蕩する一方、臣民の生活には全くの無関心だった。臣民が餓えに苦しんで困窮していることを知らされても、「あ、そう?」と他人事のように言い放った。
-盟友の[[アドルフ・ヒトラー]]しかり、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世しかり、子分の近衛文麿しかり、どんな罪人も、[[死]]に際には涙する。しかし、[[天皇]]裕仁は違った。[[死ぬ]]まで涙せず、謝りもせず、悔やみもしなかった。[[日本国]]憲法施行後も“君主無答責”にしがみ着いたのである。
-子分の軍人たちや[[政治家]]たちが[[死刑]]になるであろう東京裁判の最中に、裕仁は訴追を免れ、全国各地をのうのうと行脚し、愚男愚女を土下座させて舞い上がっていた。国内外民衆の大量死に鈍感であるどころか、「身内」の軍人や[[政治家]]すら、平気で[[美軍>アメリカ合衆国]]に売り渡した。
-「昭和維新」「尊王討奸」と称して2・26クーデターを起こした軍人たちを「愚野郎!」って罵倒したが、後にはクーデターを起こした軍人たちも顔負けのファシズムを布いた。
-裕仁の死んだ子分たちが[[靖国神社]]に祭られた時には、「勝手に俺の秘密基地に入ってくるんじゃねえ。バーカ!バーカ!」と叫んで不快感を示した。
-「[[大日本帝国]]のラストエンペラー」[[天皇]]裕仁は、往生際が悪く、終戦をずるずる引き延ばして[[原爆>核兵器]]投下を惹き起こし、敗北後も新国家の[[天皇]]に居座った。しかし、「徳川王朝のラストエンペラー」徳川慶喜は、往生際が良く、江戸城をあっさり明け渡して、平民となって静岡に転居し、平民として死んだ。この対照から、「徳川慶喜を見習え!」って台詞が、[[天皇]]裕仁を打っ叩く決め台詞になっている。しかし、山口県民、鹿児島県民、ネトウヨ、アンチ会津などが結託して悪評を流布したせいで、徳川慶喜は今でも逃げ出した軟弱将軍としての評価が根強く、逆に裕仁は潔いという、トンチンカンな評価がまかり通っている。
-しかも奇行ぶりがひどく臣民の[[税金]]で側室を400人を用意し、皇室は1940年代にはベビーブームとなった。また1940年代は大戦中であるのに裕仁は[[政治]]に興味を示さず、性教育、[[性交]]奨励などに力を入れ、淫乱な日々を過ごしていた。

CENTER:http://images.uncyc.org/ja/9/92/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%9B%BD%E6%97%97.jpg
CENTER:''ヒロヒトと[[アドルフ・ヒトラー]]、あとなんか丸いイタリア人さん''

**呼称問題 [#c3858a67]
以上のように、[[天皇]]裕仁は恐るべき[[独裁者]]であり、そのダイナミックな蛮行と無責任な態度は、マゾ気質を持つ[[日本]]人から賞賛された。[[天皇]]裕仁が乙酉革命によって権力を剥奪された後も、乙酉革命で失効した「昭和」の元号を用い続け、「昭和ノスタルジー」「昭和元禄」っていう語まで生み出し、[[日本国]]時代の復興まで「昭和[[天皇]]の御心」「激動の昭和」とまで呼んだ。全く、どんな神経の持ち主なんだ?時代まで[[天皇]]に支配されるのがそんなに嬉しいか?

一方で、乙酉革命以後の[[日本]]では、民主化勢力は、終わりのない西暦と戦後紀元を公用紀年法として用い、[[大日本帝国]]の残党が用いた「昭和」の年号を拒否している。そりゃあ、大量殺戮を惹き起こしても居直り続ける[[独裁者]]の治世で年月日を表記したくないし、[[天皇]]が死ぬ度に変わる元号なんて使用価値も無いもんな。明仁[[天皇]]も、あと50年もしたらいなくなってるのは確実なんだが、その時はどうするんだろう。

[[核爆弾]]2発を落として[[大日本帝国]]を葬った「美国」こと[[アメリカ合衆国]]では、「ノーモア・ヒロシマ」を唱える反核運動へのカウンターアクションを起こす際、「ノーモア・ヒロヒト」を唱えている。

**神風邪 [#p431d971]
お[[フランス]]帰りのイヤミ27世伯爵によると、ヒロヒト呼称問題に関連して、某百科事典のおフランス語バージョンでは、記事のタイトルを「ボンソワーン(ヒロヒトのおフランス語形)」か「ラム~ル(裕仁のおフランス語形)」にするかという真摯な議論を続けたそうな。結果、1024名の体調不良者(うち32%がパルプンテ症状を訴えた)を出して、お[[フランス]]は鬼ヶ島に征服された。お[[フランス]]大統領の猿コジ氏は犬と雉の助けを求めて、武者修行中だが、雉よりも[[江頭2:50]]陛下に助けを求めたほうがいいのでは無いかというフォークロアあり。

なお、これに関わった人物が多数亡命し、英語版某百科事典でも同様の議論を煽った。議論の末に192派にわかれた執筆者は全滅。冥界で多数がおフランス人と同じ症状を訴えたが、ローマ教皇に[[トイレ]]掃除をすると会社が良くなるといわれ、現在掃除に必死に励んでみたいお年頃。

彼らが何故このような症状に見舞われたのか不明だが、最終的に[[Dr.マシリト>小泉純一郎]]の命名によって、これらの症状を総じて神風邪と呼ぶことになった。

**子分 [#p25037ff]
-関東軍
-[[近衛文麿]]
-[[東條英機]]
-[[岸信介]]
-[[小磯国昭]]
-重光葵
-[[吉田茂]]

**関連項目 [#j3f0f245]
''裕仁関連''
-[[第二次世界大戦]]
-日本の連合国占領時代(乙酉革命)
-Xデー
-昭和の日
-[[アドルフ・ヒトラー]](盟友)
-ベニート・ムッソリーニ(盟友の盟友)
-ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世(盟友)
-[[ヨシフ・スターリン]](裕仁と列ぶ[[独裁者]]だが、裕仁の圧政を弾劾する良識ある人々からはなぜか礼賛される)
-[[毛沢東]](裕仁と列ぶ[[独裁者]]だが、裕仁の圧政を弾劾する良識ry)
-ポル・ポト(裕仁のカンボジア版だがry)
-天皇化
-脱天皇化
-[[A級戦犯]]
-魔王
-熊沢天皇(実はこちらが正統の皇位継承者)

''ラストエンペラー''
-北条守時(源北条王朝)
-足利義昭(足利王朝)
-徳川慶喜(徳川王朝)
-天皇裕仁([[大日本帝国]])
-愛新覚羅溥儀(清朝)
-バオダイ(阮朝)
-ニコライ2世(ロシア帝国)
-ヴィルヘルム2世(ドイツ帝国)

-ヴィルヘルム2世([[ドイツ]]帝国)

-ウンベルト2世(イタリア王国)
-ハイレ・セラシエ(エチオピア革命の廃帝)
-ジャン・ヴェデル・ボカサ(中央アフリカ帝国の廃帝)
-フアード2世 (エジプト王国)
-イドリース1世 (リビア王)

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