暗殺(あんさつ)とは、暗闇を殺して世に光を指す行為である。
昔も今も、我々の生きる社会には、善人だけが住んでいるわけではない。善人をいたぶり私腹を肥やす、悪人も必ず存在する。暗殺とはそのように闇に紛れた悪人を、白昼に引っ張り出す正義の行動である。その結果大衆に公開処刑されようが、それは彼らの行いに対する報いである。
このような暗殺を行う人物はヒットマンと呼ばれ、民衆からは尊敬されている。ヒットマンの仕事は先ほども言った通り、悪人を光射す場所へ引っ張り出すだけである。
例をあげれば、ゴルゴ13は鉄の筒で悪人をあぶりだすだけで、自らは手を下さないといったようなことだろう、手を下さずとも、光のもとに引っ張り出せば悪人はおのずと滅びるのである。
またヒットマンと呼ばれる人物は、目立ってはいけないし、悪人を探すために常に闇社会にいなければならない。彼らは本来英雄になってはいけないのである。よって、そのような人物がなぜ民衆から尊敬され、なおかつ秘密裏に行動しているはずなのに有名人になっているのかは謎とされている。
一説には、凄腕のヒットマンという虚構を作り上げることで、多くのヒットマンが注目されないようにするためだという。また、ヒットマンたちの心の支えとして、象徴的な虚構が必要だったのではないかとも分析されている。
あるいは、抑止力として姿を見せる必要があったのではないかという仮説もある。これにより、暗殺の対象となる悪人自体を作り出さない効果があるのではないかと言われている。暗殺には相応のリスクも伴うため、回数が少ないに越したことはないからである。
暗殺には二つの手段が存在する。誰の目にも明らかな場所に悪人を引っ張り出すか、あるいは悪人がいるところに光を当てるのである。これにより、民衆が悪人の存在を知ることができるのである。闇の中で悪人を指差したところで、誰も分からないため暗殺とは認められないのである。
まず、悪人を引っ張り出す方の手段は、フランス革命を例にとると分かりやすい。この革命で暗殺されたのは、ルイ16世とその妃マリー・アントワネットである。その他大勢も暗殺されたような気もするが、そんなことは[ 誰も気にしない ]。
当時のフランスは重税が課され、民衆は貧困にあえいでいた。元凶たる悪人は誰の目にも明らかだが、その相手は国王であるため手出しができなかった。そこで、ヒットマンたちは、国王とその妃を白日の下へ引っ張り出す方法として、民衆の力を使うことにしたのである。この手段を啓蒙思想といい、今日でも政情不安定な地域で行われている暗殺方法である。結果、ヒットマンは自らの姿を現すことなく暗殺対象を引っ張り出し、目的を達成したのである。
次に、悪人に光を当てる方法だが、この方法は難易度が高いとされている。また、後述の冤罪に対する批判の原因にもなっている。ここでは、具体例ではなく一般例を挙げる。
悪人に光を当てるのは自発的な行為なので、ヒットマン自らの手で行う必要がある。また、対象となる悪人は、民衆に悪人だと広く認識されていない場合が多い。そのため、対象が悪人であるという宣言が必要なのである。この宣言を犯行声明という。そして、悪人に何らかの目印をつけることで、暗殺が終了するのである。目印は金属の粒や板が一般的だが、内出血の痕でも可とされている。なお、これを行うヒットマンは鬼ごっこの技能に長けていなければならない。
このように一見よい行動に見える暗殺ではあるが、問題もある。それは本当は善人なのに暗殺の憂き目にあう、いわば冤罪が多すぎるのだ。冤罪に合う人物は、特に政治家に多い。しかし、悪徳な政治家が多すぎるせいで、政治家の味方をしてくれる民衆は少ないのだ。そのために冤罪被害が最も多い職業と化している。
また、暗殺を行っている人物が、実はどっぷり闇社会に浸かっているというのも大きな問題である。暗殺は本来善人がするべき行動であるが、悪人が自分と敵対する人物を、つぶすために使うことはもちろんのこと、本来善人で会った人が、闇を切るために闇社会に向かったのに、いつの間にか闇社会の人間になっている、いわばミイラ取りがミイラになってしまうのである。これを防ぐためには、民衆一人ひとりが闇を照らして、悪人を見つけ出す光となる努力が必要なのである。これは、善人を悪に染めないためには必ずしなければならないのだが、愚民社会といわれる現在では夢のまた夢である。