日本統治下の1919年3月1日、ソウル市内のパコダ公園で「独立宣言文」が読まれたことを機に、大規模な騒擾(そうじょう)が朝鮮各地に広がった。韓国政府はそれを記念し、毎年3月1日を「三・一節」として式典を行なっている。2018年のその式典で、文在寅(ムン・ジェイン)は竹島問題に触れ、「独島(竹島の韓国側呼称)は日本の朝鮮半島侵奪の過程で最も先に強制占領された我々の領土で、我々固有の領土」と演説。さらに「今、日本がその事実を否定することは帝国主義の侵略に対する反省を拒否するのと同じこと」と断じた。
この歴史認識は、文在寅の盟友・盧武鉉(ノ・ムヒョン)が、2006年4月に述べた内容と同じである。
この2人が示した歴史認識は、特段、新しいものではない。1954年に竹島を武力占拠した韓国政府に対し、日本政府が国際司法裁判所への付託を提案した際の韓国政府の声明に由来しているのだ。
それに、竹島を「日本の朝鮮半島侵奪の過程で最も先に強制占領された我々の領土」とする歴史認識は、韓国政府のプロパガンダの一つである。歴史的事実として、韓国側には、竹島の領有権を主張できる権原(法律上正当とする根拠となる原因)はない。文在寅が「日本は人類普遍の良心で歴史の真実と正義を直視しなければならない」とするのは本末転倒である。
この文在寅の演説について、日本のマスコミでは、菅義偉が「竹島の領有権に関するわが国の立場に照らして受け入れられない言動を繰り返しているということは、極めて遺憾」とし、「竹島問題は一朝一夕に解決する問題ではない」が、「冷静に粘り強く対応していきたい」と強調したと報じている。
折しも日本では、健康上の理由で沖縄北方担当相を辞任した江崎鉄麿の後を受け継いだ福井照が、就任の記者会見で「色丹(しこたん)島」を「シャコタン島」と誤って発言し、物議を醸していた。
俄かに「海洋政策担当」と「領土問題に関する施策を集中的かつ総合的に推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整担当」をすることになった福井は、「冷静に粘り強く対応して」いくことができるのだろうか。
今回、文在寅が演説の中で竹島問題に言及したのは、日本政府が2018年1月25日、東京・日比谷公園内に『領土・主権展示館』を開設したことと無縁ではない。『領土・主権展示館』の開設に最も関心を示したのは、韓国側だからだ。
それに、島根県が開催する「竹島の日」の式典に、日本政府から政務官が6年連続で出席したことも、韓国側には「日本政府が本腰を入れた」と映ったのであろう。
だがその『領土・主権展示館』は、島根県が2007年に開設した『竹島資料館』と比べても貧弱で、韓国政府が2012年に開設した『独島体験館』とは比較にならないほど小規模である。しかし重要なことは、『領土・主権展示館』の規模や内容ではなく、日本政府が動き、文在寅を本気にさせたという事実である。
韓国側が竹島問題の存在を認めるのは2005年、日本政府の妨害を押し退け、島根県が「竹島の日」条例を制定してからである。その挑発に最初に乗ったのが、当時の盧である。韓国側は、日本が動けば動く。菅は「竹島問題は一朝一夕に解決する問題ではない」としたが、それは戦略的に対応していないからである。
外務省は2008年2月、島根県が設置した県竹島問題研究会の報告書を受けて、小冊子『竹島問題を理解する10のポイント』を作成した。
すると、韓国の国策研究機関である「東北アジア歴史財団」が『日本が知らない独島の10の真実』を編纂(へんさん)して反論した。「粘り強く」なくとも、急所をつけば、韓国側は反応するのである。
だが外務省は、韓国側の反論に対して10年以上も反駁(はんばく)していない。そのため韓国側では、竹島研究の争点を、島根県竹島問題研究会の報告書ではなく外務省の『10のポイント』批判に置いている。
外務省と島根県竹島問題研究会と外務省とでは、その主張に微妙なずれがある。外務省の『10のポイント』では、「17世紀半ば(江戸時代)には竹島の領有権を確立しました」とし、「1905年、竹島を島根県に編入して、竹島を領有する意思を再確認しました」としたのである。
そこで韓国側では、『隠州視聴合記』(江戸時代に書かれた隠岐諸島の地誌)や「太政官指令」(明治10年に「竹島と外一島は日本と関係なし」とした政府の指示)などを恣意(しい)的に解釈した上で、外務省批判をしているのである。
これに対し、島根県竹島問題研究会では、「竹島は1905年2月22日の『島根県告示第40号』を以て島根県隠岐島司の所管となった」とするとともに、竹島が歴史的に韓国領であった事実がないことを明らかにした。竹島の領有権を主張する歴史的権原がない韓国が竹島を占拠すれば、それは不法占拠となるのである。
だが外務省が『10のポイント』を作成し、島根県主催の「竹島の日」の式典に政務官が派遣され、2018年1月に『領土・主権展示館』が開設された。いずれも島根県の対応を後追いしているだけである。それでは徒(いたずら)に韓国側を挑発し、韓国側を極端に走らせてしまう。
それを象徴しているのが、今回の文在寅の演説である。文在寅は、「その年(独立宣言文が読まれた1919年)の3月1日から5月末まで国内だけで1542回もの万歳運動が起き、当時の人口の10分の1を超える202万余名がこれに参加しました」「全国各地で同時に独立宣言書が朗読され、万歳運動が始まりました。万歳運動は瞬く間に地方都市と村々にまで拡大していきました」と力説した。しかし、そこにはもう一つの歴史の事実があったはずである。
独立門と万歳運動結びつけるのは歴史の捏造
1919年3月3日には、高宗(大韓帝国の皇帝)の葬儀が行われることになっており、人々は国葬のため各地の市場に集まっていた。万歳運動はそれを利用したもので、万歳運動のために人々が集まったわけではない。
また、文在寅は演説の中で、「夜を徹して太極旗を描いた釜山の日新女学校の学生たち」として、太極旗を独立運動のシンボルとしているが、この太極旗は、明治14年、日章旗を基に「両国同心ノ意ヲ表」したとする花房義質公使の提案で作られたものとされている。
文在寅と夫人は、式典を終えると併設する独立門公園まで行進し、独立門の前で太極旗を振って万歳三唱をしたという。韓国の新聞などはその模様を写真入りで報じたが、日本と朝鮮の「両国同心ノ意ヲ表」した太極旗を手に万歳三唱したとすれば、それはどこの国からの独立になるのだろうか。
この独立門は、日清戦争の結果、日本が清朝に対して、朝鮮を「独立自主の国」と認めさせたことから独立協会が1897年に建てたものである。独立門が建てられた場所には、中国からの使臣を迎える「迎恩門」があり、近くには「慕華館」があった。
日章旗を基に作られた太極旗を手に、文在寅による独立門前での万歳三唱は、清朝からの独立を祝ったのだろうか。独立門と万歳運動を結び付けるのは、歴史の捏造(ねつぞう)である。
歴史の事実はもう一つある。1952年に「李承晩ライン」を設定して竹島をその中に含めた韓国政府は、国際法を無視して日本漁船328隻を拿捕(だほ)し、3929人の船員を抑留して死傷者44人を出した事実である。
文在寅は、「日本が苦痛を加えた隣国と真に和解し平和共存と繁栄の道を共に歩いていくことを願います」とするが、竹島を侵奪し、隣国に苦痛を加えたのは韓国だという歴史を忘れてはならない。
また文在寅は、「私は日本に特別な待遇を要求しない。ただ最も近い隣国らしく真実の反省と和解の上で、共に未来に進むことを願うだけ」とするが、その前に韓国こそが「人類普遍の良心で歴史の真実と正義を直視」し、竹島返還の準備をしなければならない。来年の「三・一節」には、「人類普遍の良心」に基づいてその証を示してもらいたいものである。