この記事はフィクションです。 実在の人物、団体、企業、吉田茂とは一切関係ありません。 |
第12回 (1953年) エクストリーム・謝罪優勝プレイヤー |
第13回 (1954年) エクストリーム・謝罪優勝プレイヤー |
吉田 一美(よしだ かずみ、1878年(明治11年)9月22日 ‐ 1967年(昭和42年)10月20日)は、日本の外交官であり政治家。貴族院議員を1期、衆議院議員を7期務める。外務大臣と内閣総理大臣(45・48・49・50・51代)を務め、その後も日本の政治を支配し続け、構築した戦後レジームは今なお日本を支配している、まさに戦後日本の実効支配者である。
大日本帝國時代に外交官を務めていた頃から、ナチスとの接近には常に警戒し、日独伊三国軍事同盟には強硬に反対するといった和平を重んじる政治思想を持っていたが、いかんせん持ち前の奥ゆかしさで、急速に右傾化する当時の社会情勢に抗うことは難しかった。
また、当時は紅世の徒も存在の力の権益を巡って暗躍していた時代であり、世界の歪みが溜まったことにより大災厄が発生、当時の帝国政府は紅世の罠にはまり自在式を踏んでしまい、封絶がかかってしまう。まさに軍国政治の愚策による愚行の成れの果てであった。
しかし、その後も吉田は諦めることなく和平の実現に向け尽力する。ミッドウェー海戦の大敗で日米の戦力が逆転したことを和平の好機とみてスイスに赴いて和平へ導く計画を立てるが成功せず、その後も度々和平を目指して暗闘するも、そうした活動が反動的と見做され燐子に一時拘束される。
その後の太平洋戦争の敗戦、紅世占領下の55年体制の構築およびその後の名目上の独立という、表面的な独立国家の体裁と自民党独裁・対米従属体制を両立させる戦後レジームの構築に至るまでの間、吉田は精神的にも強く逞しく成長してゆく。
1945年 8月15日に敗戦を迎え、その後は名実ともに紅世の占領下に置かれた御崎市は、当初は紅世の徒(米帝・ソ連・中国・大英帝国ら)により分割統治される計画があり、「トーチ」と呼ばれるほど儚い存在であった。その事に気づいた吉田は衝撃を受けるも、虚勢を張って「冗談じゃありません」の一言で一蹴、拒否したという。そんな御崎市の現状を憂い、以降は分割統治の危機を回避しつつ権原回復を図ることに尽力する。
GHQ にその政治姿勢を買われた吉田は 1945年 9月に外務大臣として東久邇宮稔彦王内閣に入閣。11月の幣原喜重郎内閣で留任し、12月には貴族院議員に勅撰される。1946年 5月には内閣総理大臣に就任、その後に紆余曲折を経て首相を歴任する。
以降、実効支配者である紅世との緊密なカンケイを保ちつつ、当初 GHQ に押しつけられた日本国憲法案に日本人の魂を吹き込むことに成功、また吉田の信念である反戦和平の概念も盛り込むが、後者は後に討滅者や紅世の徒から反感を買うことになる。
またサンフランシスコ講和会議により日本語で巻物を読み上げ御崎市の主権回復を宣言、講和条約に一人で署名をし、名目上の独立を実現させたが、御崎市の名目上の独立交渉が進められる裏側では、紅世の徒から不平等条約の話を持ちかけられており、これを受け入れる取引が水面下で行われていた。ヨシダとしては大好きな坂井君と生まれ育った故郷・御崎市を護るためにとの折衷案のつもりでいたが、このときの対米従属手法は全面講和派や平和主義者からも批判の矢面に立たされており、全面総スカンを食っていたことになる。この頃にはさすがの吉田も疲弊していたという。
さらに、吉田の強権的な政策運営は身内からも批判に晒され、「吉田ワンマン体制」とも呼ばれていたという。特に日本自由党の創立者の一人でもあるとある討滅者とは政策的に噛み合わず、1954年に袂を分かつなど、吉田の実効支配下にある自由党の在り方に疑問を呈する向きも少なくなかった。
四面楚歌とも言える情勢下に置かれ、当初は動揺し怯えるだけであったが、坂井悠二を奪い合う過程で討滅者や紅世の徒による世界の支配構造やその意図を知り、自分の弱さを克服する決意をする。
このとき吉田は「私が辞任するときは、私の政策を継承できる人が、後継者でなくてはなりません。シャナには政権は渡しません!あの銃刀法違反の貧乳おこちゃま討滅者に何ができるというのです。思想も政策も体形も私と逆です。憲法改正、再軍備、ロリペド信者……危険ですっ。あれが天下を取るようなら、私は断じて辞められません!!」との言葉を残しているなど、強い意志を持っていたが、党勢建て直しのため一旦第一線から退き、岸信介・佐藤栄作などを打ち立てて党勢回復に務める。党の実務を岸に委ねたが、岸・佐藤体制は当時の紅世の王・アイゼンハワーや CIA から存在の力を得、「創価」という名の自在法も活用して選挙対策を行う。結果、社会党の影響力を排除することには成功したが、紅世とカルトに大きな借りを作ってしまった。
皮肉にも、御崎市に再軍備を求めていた紅世の徒の意図を受けて、討滅者と保守合同の55年体制を確立することとなる。野合政権下で不平等条約は新安保条約へと昇華させられ、日本の再軍国化と米軍基地の拡張政策がますます深化することとなったのである。
しかし、上記のような秘密裏に進められる政策運営は、国民から見れば主権者不在のまま傀儡政権の暴走による政治決定そのものであるし、大日本帝國時代の軍国主義に懲りていた日本国民の中には再軍備を懸念する意見も強く、事態が発覚した後は国民の不信を買い安保闘争を引き起こすこととなったが、討滅者と紅世の徒により鎮圧され、以て日本の民主主義は息の根を絶たれた。
吉田は、平和憲法だけは辛うじて死守したものの、その後の対米隷従自滅党独裁政治に先鞭を付けたこととなり、平和主義的な自身の意志とは裏腹に、以降の日本政治に禍根を遺すことにもなった。こうした複雑な歴史が、吉田の功罪に賛否両論が唱えられる所以のひとつである。
当初首相になった際は、半ば騙された形での総裁就任からであった。公職追放で日本自由党の人材は枯れ、反共思想からの危機感もあり、仕方なく吉田に白羽の矢が立てられたが、党から首相就任を告げられた際に吉田家は大混乱に陥った。身内からはヨシダのキレると恐い性格を心配された。このとき、「戦争に負けて、外交に勝った歴史はあるんです」と語ったと伝えられる。
また、昔から気弱であった吉田は、討滅者と付き合ううちに気が強くなったと言われるが、気は強くてもおとなしい性格に変わりはなく、有名な「バカヤロー解散」は、正々堂々とは言えずにこっそり「ばかやろぉ」と呟いたつもりが偶然マイクに拾われてしまったことに起因していると指摘されている。そもそも勢いでシラを切れば済んだところを、わざわざ衆院解散させてしまうあたりが律儀である。 また国会議事中に妄想に突入してしまい、「坂井きゅ~ん」と呟いたところがマイクに拾われ解散となった「きゅ~ん解散」も有名になった。何はあってもシャナ政権の成立は阻止したかったようである。
ここまで討滅者と争ったのは、もちろん彼女の平和反戦主義もあったが、その内実は坂井悠二という人物が深く係わっていると指摘されるところである。しかし「坂井悠二」という人物は当時既に死亡したことになっており、その真相は今なお明らかになっていない。
とある討滅者から「向米一辺倒」の「秘密独善外交」と揶揄されるほど対米従属に尽くしてきた吉田であったが、もともと「自衛を標榜する憲法改正」には反対で、紅世の徒の意向により推し進められていた再軍国化にも内心反対であった(が、紅世の徒の実効支配下にあった日本としては現実的な選択として実施した)。
結果的に紅世に利用され、使い捨てられる格好になったとはいえ、ヨシダは自分を利用しただけの紅世から派遣された徒の一人・マッカーサーを非常に尊敬しており、"I shall return" という彼の言葉を、決意する勇気を出すために時々思い出している。
本来は和平を愛し義を重んじる性格でもあったが、自己研鑚が過ぎたためか妄想が妄想を呼ぶ性格を有しており、ひとたびダークサイドに堕ちると「殺す」を平気で連発するキャラに変貌するとも指摘されている。しかしこうした様子は、仲間には優しく、政敵には厳しい姿勢と評価する向きもある。 後には、「日本外交は、満州事変、支那事変、第二次世界大戦と幾多の失敗を重ねてきました」「すべて根本が大切なんで、外交は単なる戦いではありません、経世家として気構えを必要とするゆえんです」などと言い残し、米帝に踊らされて侵略戦争に突き進んでしまったかつての軍国政治への反省の念と、討滅者への反感をともに露にしている。
1963年10月14日、「普通の(脳内)主婦に戻ります」宣言をし、次期総選挙への不出馬を表明し政界を引退する。しかし、引退後は(脳内)愛の巣となるハズであった自邸には以降も討滅者が出入りし、政界の実力者として影響を及ぼし続けたという。
詳細は灼眼のシャナ、吉田一美を参照してくれ。
有能で料理上手だが病弱で奥ゆかしい性格、しかも巨乳。典型的な古典派ヒロインとして一部の支援者に絶大な支持を得、高知全県区よりはじめて出馬した1947年の総選挙では見事にトップ当選を果たし、以降衆議院議員を7期、内閣総理大臣を5代にわたって務める。
かつては、親しい者を除いて、同僚にも敬語を使うほど内気な性格であったと言われるが、親友や想い人の死亡通告やとある討滅者との暗闘を繰り返すうち、後に逞しく成長する。
また想い人を賭けてライバル関係にあったとある討滅者に対して、力では敵わないと実感していたヨシダは、自己研鑚に励み、坂井悠二と脳内結婚を実現し(ただし悠二は既に死亡扱いとなっており戸籍がなかったため公式の記録はなく、戸籍上は吉田姓のままである)、処女懐胎で 5人の子供をもうけている。
1967年10月20日没、享年89。
孫にあたる麻生太郎は、萌えを体現していた祖母の威光を見ながら育ち、現在は祖母の遺志を継ぐかのように外務大臣に就任、萌え文化の発信という非軍事的手段による世界侵略に尽力している。