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霞ヶ関

霞ヶ関(かすみがせき)は、東京の都心にある、日本官僚の本拠地である。支店が彩の国河越にある。

概要

東武東上本線が昔から通っていたが、誰も使わなかった、というか駅の存在に気付かなかったため、営団が丸ノ内線・日比谷線・千代田線を通した。日本国全体を統制する官僚の本拠地である。「霞が関」=「官僚」という、東大発祥のイメージは、この街の成熟とともに全国に広がった。この界隈で目を瞑って石を投げたら確実に官僚にブチ当たるとされており、七三分けの髪型に眼鏡、そして爬虫類かカマキリのような顔のエージェント・スミスそっくりな官僚の群を見ることはあっても、それ以外の人間を見出すことはないだろう。

言うまでもないが、もしこの記事を読んでいる君が、現在の日本の政治や行政に烈しい不満を持っていたとしても、霞ヶ関で無差別に投石するのはやめときたまえ。

霞ヶ関で捕まえて

霞たなびく神隠し

江戸時代以前から奥州街道の関所として、そして中世から東日本の名所として広く知られており、1364年(貞治3年)の新拾遺和歌集にも「徒らに名をのみとめてあづま路の霞の関も春ぞくれぬる」として詠まれている。この歌の大意は「霞ヶ関は春の霞(かすみ)が深いから、いたずらで名前を呼び合って惑わすと道に迷い、日が暮れるまでには帰れなくなるぞ」という警告の和歌であったそうである。この和歌は現在の我々が公園などで見掛ける「痴漢に注意」「暗い夜道は気をつけよう」の標語のようなものだったらしいのである。それはともかく一年を通じて霞がたなびき、視界がいつもぼやけているこの一帯は、神隠しや人さらいで有名だったようである。

灰色の大名屋敷

徳川家康が江戸幕府を開いて以来、この地は名だたる大名の屋敷が立ち並ぶ地域となった。しかし霞(かすみ)、霧(きり)、靄(もや)といった気象が連日続くといったことは以前と変わらず、江戸城から霞ヶ関を見下ろすと、この地域だけがどんよりどよどよと灰色がかっている様子が葛飾北斎や歌川広重の浮世絵にも描かれている。逆に霞ヶ関では快晴は不吉なこととされ、霞ヶ関の大名屋敷では「晴れの日に出かけると討ち入りに遭う」などの忌み日とされていたのである。

霞ヶ関の変

幕末になっても霞ヶ関のもやもやはますます濃くなる一方であった。この時期に大老井伊直弼が、幕府の方針に逆らう藩はないかとお忍びで霞ヶ関界隈を訪れている。しかしこの強烈な霞や霧に飲み込まれ、井伊大老はあろうことか15日にわたって行方不明になって終ったのである。出身地の彦根藩士の必死の捜索によって、大老の身柄は無事確保することができた。発見された時、大老の頭から手足の先まで書き込みがされていたのである。詳細に見ると、彦根名物「ひこにゃん」や、「モナー」や「ヤル夫」などのAAのいたずら書きであった。

どうやら井伊大老の「安政の大獄」の悪評のためというよりも、偉そうにふんぞりかえったこのオッサンが単に気に食わなかっただけらしく、霞に巻かれた大老が途方に暮れている所を、祭り好きの江戸っ子たち(こいつらが「祭り」好きの2ちゃんねらーの先祖である)が、霞のドサクサにまぎれてわんさとつめかけて書きなぐったようで、無責任にもそのまま放置プレイした模様である。このイタズラをした江戸っ子たちは霞に紛れて散り散りに逃げ去り、捕まえることができなかった幕府の威信は落ちたという。これが世に言う「霞ヶ関の変」である。幸運にも井伊大老は一命を取り留めたが、その3年後の1860年に、江戸城の門の脇で水戸浪士に斬り殺されるとは思いもしなかったであろう。これが「桜田門外の変」である。

官僚一族

日本の真の中枢

ここ霞ヶ関は、実は日本の中枢である。天皇陛下のおいでにある皇居はいざ知らず、首相官邸や国会議事堂のある永田町や、大手企業がひしめくオフィス街の丸の内も大手町も、あの某カルト教団の本拠地である信濃町でさえ、その意味では日本の中心とは言えない。

それが証拠に、金王国のミサイルが日本の首相官邸や国会議事堂を狙っていたという情報が流れた時、日本政府はの平静さを保っていた。暫くそのまま霞ヶ関官衙群では、官僚たちが猫鍋の画像を眺めていたり、昼寝ついでに鼻提灯を膨らませていた程である。

しかし、その照準が実は「霞ヶ関」だったことが判明するや、霞ヶ関官衙群のみならず、日本の政財界などあらゆる分野に衝撃が走った。東証平均株価が暴落し、都市銀行は取り付け騒ぎが起こり、JR私鉄各線が緊急停車し、都内の小中学校では急ぎ集団下校の指導がされ、主婦たちがトイレットペーパーを求めてスーパーを荒らしまわり、巣鴨では年寄りが集団で餅をのどに詰まらせた、と続々情報が入ったように都民はパニクりまくったのである。

事務次官は「ネ申

そもそも霞ヶ関官衙群は、首相官邸を頂点とする行政府に組み込まれているように一般的には考えられており、ここで働く官僚も「国家公務員」という「公僕」すなわち役人に過ぎないと思われている。しかし、霞ヶ関では、こうした教科書的な寝言を言えばコテンパンに嘲われる。原則として、霞ヶ関では国会議員よりも、各省の大臣や総理大臣よりも、事務次官が偉いのであって、これは霞ヶ関の官僚が最初に胸に刻む鉄則となっている。

霞ヶ関には幾つかの省庁があるが、最高位は「財務省(旧大蔵省)の事務次官」であり、霞ヶ関では「ネ申」と呼ばれる。財務の事務次官からすれば、総理大臣などは「政治経済」の「せ」の字も知らない消防のような存在である。しかし、それを平気で言うと問題が多いので、仕方なしに慇懃無礼に総理大臣や他の大臣を立てている。そんな時の彼らの含み笑いを見て欲しい。「大臣はもうお解りかと~、大臣はもうご承知だと~、大臣のおっしゃることは一面では正しいのですが~」という台詞は、「ちんたらちんたらしやがって、何度言わせりゃ済むんだ、この低学歴の大バカが!」と翻訳されるべきものである。事実、かつては岸信介や福田赳夫といった東京大学法学部を首席で卒業した肩書きを持つ総理大臣が何人もいたにも拘らず、1991年に総理となった宮沢喜一を最後として、東大法学部出身者の総理大臣は全く存在していない。

官僚にあらざれば

日本韓国はよく「学歴社会」「学閥社会」と呼ばれるが、霞ヶ関ほどそれが貫徹されている場所はないであろう。○○小学校→○○中学校→○○高等学校(旧制中学校系統の高校。東京で言えば日比谷高校、水戸で言えば水戸第一高校)→東京大学法学部→財務省が正統たる理想のエリートコースで、こうした履歴が事務次官級の官僚、即ちキャリア官僚には求められる。キャリア官僚の比率では東大閥と京大閥がしのぎを削っているが、京大閥が1/5に対して、東大閥は4/5に上る。インドのカースト制度に例えると、キャリア官僚の事務次官・局長・官房長辺りがバラモンであって、その間がややあって、ノンキャリアと呼ばれる非主流派はカースト外、即ちアウト・カーストと見做される。一般庶民がこのカーストに含まれていないように見えるが、官僚には一般庶民なんか眼中にはなく、うぞうぞ蠢いている妙な生き物としか映っていない。

従って、財務・経産・外務などキャリア官僚の主流の子供たちは、松濤幼稚園の頃から庶民とは全く隔絶された環境で英才教育を受けることになる。庶民の餓鬼と遊ぶと「愚」が伝染ると考えられているからである。こうして官僚の子弟は、「ボクのパパ、今度○○課の課長だって」「うちの方が凄いよ、○○局の局長だって」という台詞が飛び交うような小学校生活を送っているのであり、同級生の父母が官庁の同じ部局にいるということも珍しくないようである。官僚子供たちの夢は、「東大法学部入って、民間なんて嫌だから、官庁に勤めて、キャリア街道まっしぐらで、事務次官まで勤めて、円満退職して、天下りしてお金をがっぽり稼ぎたい」というものだそうである。

大体、官僚子供はその顔つきからして親にそっくりで、小作りながら目鼻立ちは爬虫類やカマキリを髣髴とさせる。官僚の親子が手をつないで無表情な顔のままキャッキャッしているのを見ると、「日本という国はこの官僚の一族に支配されているのだ、しかも親から子へそして孫へ」という絶望感に襲われること請け合いである。縦え彼らが官官接待を受けていようとノーパンしゃぶしゃぶで暴れまくっていようと、日本が平和で豊なのは官僚の皆さんのお陰なのである。

麻原彰晃率いるオウム真理教の面々の間では「首相や永田町はどうでもいいから、霞ヶ関だけポアして天下を取れ」というのが合言葉になっていたが、全くその通りなのである。第一、永田町の国政選挙の比例区の区割りなんぞ、霞ヶ関の出先機関のエリアをそっくり模倣た物である。

官僚の王国

霞ヶ関支配は永遠です

強固な英才教育と、日本各地に張り巡らした出先機関を以って、霞ヶ関の官僚は「霞ヶ関の、霞ヶ関による、霞ヶ関の為の」日本を作り上げ、不滅の永久支配を企んでいると言っても言い過ぎじゃないだろう。総理大臣を含めて永田町の政治家は選挙で任免審査を受けるし、大臣も任期が終わればお払い箱である。

しかし、霞ヶ関のキャリア官僚は違う。官僚はエージェント・スミスのように、どんどんと同じような顔の人間を、まるで単性生殖でもしたかのように増やしていく。親方日の丸の陰に隠れて終えば、退職まではきちんきちんとお手当てがつくし、いざという時には必殺技「天下り」もある。しかも霞ヶ関全体が、生き馬の目を抜くこの時代にあって、自分たちを不利な状況に追い込まないしたたかな処世術を巧みに使いこなしている点に驚かされる。

証拠隠しとガセネタリーク

とにかく書類やファイルやメモに関して言えば、彼らほどこうした資料の扱いを心得て入る者はいない。官僚に不都合な書類はどんなことがあろうとも「ひた隠し」である。部局の長から下々の末端に至るまで、保身となると一様に官僚たちは口を合わせて「知りません」である。「霞ヶ関中探しましたが見つかりませんでした」って台詞は、「霞ヶ関中がグルになってみんなで緘口令敷いています。見つかりっこねーだろ。このヴォケが」を意味する。徹底的な証拠隠滅はお手の物であるが、その一方で官僚組織にちょっかいを出そうとする政治家には、彼の不利益となる情報やデータを虱潰しに引っ張って来るばかりか、リークと称して捏造されたガセネタをチョロチョロ流しまくる。読みの浅い政治家はコロッと騙されるから、官僚家業は辞められない。

頭は擦り付けても

こうした証拠隠滅やガセネタのリークでも収まらない官僚に対する世間からの非難については、それこそカマキリみたいな頭をコメツキバッタのように地面に擦りまくるのである。「頭は幾ら下げても磨り減らない」というのが官僚の信念であり、「申し訳ございませんでした」を涙流さずにどれほどやってきたかが、出世の評価に関る。勿論、愚なクレーマーがぶちキレて、デモ隊を組織して霞ヶ関の省庁に怒鳴り込んで来る事もあるが、それはそれ、お茶とお菓子と謝罪をちょいとやって、後は官衙群のジャングルにそのまま置き去りにすればよい。「こちらの課ではありませんよ」「うちの部署では扱っておりません」「この件についての書類が不備かと思いますが・・・・」これらを10回ぐらい繰り返し、「もう一度、受付で確認してください」で返した後、「本日の業務はこれで終了しました」とまでやれば、大概のクレーマーは二度と霞ヶ関に来ないであろう。

このように、江戸時代には「霞」で路頭に迷った「霞ヶ関」であるが、現在では「繁文縟礼(はんぶんじょくれい)」で人を路頭に迷わすのが「霞ヶ関」官衙群なのである。

地下鉄サリン事件の霞

霞ヶ関の支配を夢見た麻原彰晃

こうした官僚の老獪さや煩わしさに業を煮やしていた者が麻原彰晃である。麻原彰晃は宗教に名を借りた詐欺師であるのみならず、日本国を永遠のユートピアにしようと雑誌『ムー』などを通じて、「前世は戦士だった人いませんか」など広く一般大衆に訴えて来た。加えて1990年にはオウムの愉快な仲間たちを糾合し、象の被り物をするだけではなく、駅前で「しょーこー、しょーこー、しょこしょこ、しょーこー」と歌にダンスにパフォーマンスまでしまくって、衆議院選挙に出たものの、何の因果か当選者無の大敗北を喫したのである。先述したように政治的なカンが鋭い麻原は、1995年初頭には日本国の正体を見切っていた。この衆議院選挙での敗北は、オウムを陥れようとする何者かの仕業に違いない。内閣や総理大臣日本の国にとってどうでもよい存在である(当時の首相は村山富市である。実にどうでもいい・・・・)。

となると、偉大なるオウムの邪魔となっているのは霞ヶ関の官僚どもに他ならないと、麻原彰晃はメロンをむしゃぶりつくしながらそう結論付けたようである。将を射んと欲すればまず馬から射よ。官僚王国を滅ぼさねばオウムの千年王国は永遠に樹立できない。そこで日本国の真の中枢である霞ヶ関を射ることを決意したのである。一説にはしゃぶしゃぶと女性に目がないエロまみれ麻原彰晃が、官僚ノーパンしゃぶしゃぶ通いに嫉妬したからという説もあるが、真偽は不明である。とにもかくにも麻原彰晃は、偏差値は高いがそこそこ頭がイカレポンチな部下たちに命令を下したのである。「霞ヶ関をポアせよ」と。

サリンが撒かれた霞ヶ関

かくして1995年3月20日8時ごろ、首都東京を大混乱に陥らせた「地下鉄サリン事件」が発生したのである。霞ヶ関はその名の通り、致死性の高いサリンの霞にぼわーんと包み込まれてしまったのである。東京地下鉄丸ノ内線・日比谷線・千代田線、いずれも霞ヶ関に乗り入れる地下鉄すべてが狙い撃ちにされ、地下鉄構内は騒然とした。地下鉄利用者の中には「バルサン焚いてるんですか?」と尋ねるようなのんきに構える者もいたそうだが、多くの者が目眩や吐気や痺れや視野狭窄に襲われ、オウムの歌がひっきりなしに聞こえる、麻原の髭面アップが、更には麻原彰晃の一糸まとわぬセクシーポーズがフラッシュバックのように映し出されるなど、生き残っても深刻な後遺症に悩まされる者も少なくなかった。

当時、高偏差値の青年が何を好き好んでひげもじゃ詐欺師の麻原彰晃ごときに騙されて…と嘆く風潮があったが、それは誤っている。高偏差値の若者だからこそ、偏差値カーストの首位に立つキャリア官僚の存在が許し難く思われたのであろう。又、オウムに理工系出身者が多いことも、キャリア官僚が法文系出身者で固められていることへの異議申し立てがあったものとも考えられる。こうした理工系インテリのルサンチマンをもって霞ヶ関にぶつけ、そのドサクサに天下を取ろうとする麻原彰晃の野心と老獪さには、実に驚かされる。尤も、麻原彰晃は言うまでもなく・・・・どう見たってインテリ・・・・ではない・・・・だろう。

それはさておき、霞ヶ関制圧の報せを聞いた麻原彰晃は大変な上機嫌で、志村けんの早食いのように好物のメロンを、顔に汁ひっかけながらガツガツ貪り食うと、あんぽんたんな信者どもを目の前にして「シバ神と真理勝者にポアされてよかったね」と説法をしたのはよく知られている。

オウムに復讐する官僚たち

不幸にも多くの犠牲者を生み出したこの事件だが、普段から謝罪、たらい回し、媚び諂い、慇懃無礼に明け暮れている官僚たちは、その程度の攻撃にはビクともしなかった模様である。

空中浮遊のできる麻原彰晃はその超能力で霞ヶ関までぶーんと飛んでいき、眼下に広がる霞ヶ関を見ていた。…と言われるが、空中浮遊しながら上九一色村のアジトに隠れていた所、「ノーパンしゃぶしゃぶ食わせるから降りて来い」と言われて、一挙に瞑想状態が解けて、空中からドスンと落下し、そのまま警察の御用となったのは有名な話である。勿論これも、霞ヶ関官僚の大いなる陥穽だったのである。

植民地としての存在

ここまで日本・東京の霞ヶ関について記述してきたが、この霞ヶ関は、植民地としての側面も有することを忘れてはならない。霞ヶ関の本拠地は彩の国さいたまの川越市の傍らにあり、東京の霞ヶ関はその植民地である。日本の中枢部がさいたまの実質的支配下にあることのひとつのあらわれといえよう。

あまり知られてはいないが、さいたまの霞ヶ関は金融の中心地でもある。自称カリスマ投資家たちが住み、毎年何億円もの利益を上げていると当人たちは主張している。皆にも儲けてほしいとセミナーに熱心なあまり、これから逮捕されそうな者もいれば、既に逮捕された者もいる。これ以上のことを書くと名誉毀損だの侮辱だのとうるさいので、興味のある方はぐぐったりやほったりしていただきたい。

出先機関所在地

以下に挙げる都市は、いずれも霞ヶ関の出先機関(○○地方△△局)の所在地である。これらの機関が、霞ヶ関の理屈を振りかざし、「霞ヶ関の、霞ヶ関による、霞ヶ関の為の」日本を作っている事は言うまでもない。


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