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麻生太郎はなぜ不遜に映ってしまうのか 臨床心理士が分析

森友問題の舞台となったあの国有地には、瓦礫ではなく、財務省理財局が埋めたパンドラの箱が眠っていたようだ。その蓋が開いた途端、次から次へと問題が噴出。太田充は、出てくる問題への対応に追われ、連日のように国会で陳謝、陳謝と深々と頭を下げているのだが、財務大臣である麻生太郎が頭を下げる気配は一向にない。

そんな麻生太郎に一気に批判が集中したのは、決裁文書の改ざんを認めた会見のあの態度からだ。麻生太郎をよく知る人なら、苛立ってはいるが、あれはいつもの“麻生太郎スタイル”だと思えただろう。でもそれこそが、見ている側に不遜高慢な印象を与えたのだと思う。

なぜ高飛車な印象が強くなるのか

麻生太郎の口調は、べらんめぇでぶっきらぼうだ。イライラしていると声音もきつくなり、さらにつっけんどんで突き放した言い方になってくる。このような口調は、感情を押し殺したような冷たさや、支配的な印象を与えやすい。

おまけに質問するレポーターに睨みを利かせたり、そっぽを向く。会見ではこの口調や態度が際立っていたため、冷たく傲慢で高飛車な印象が強くなった。

そんな口ぶりで「佐川宣寿佐川宣寿」と連呼したのだから、何も言えない部下に責任を押し付ける上司というイメージが強くなった。職員による口裏合わせを認め、太田充が国会で頭を下げた時もそうだ。先にこの件を問われた麻生太郎は、太田充の方を見もしないで、後ろ手で指し示すと「理財局長から説明させる」と淡々と冷たく言い放った。現場のことは現場の責任、頭を下げるのは理財局長の役目とでも言いたげな口調と仕草なのだ。

民間企業なら謝罪会見で頭を下げるが……

謝罪を口にするが頭は下げない。部下は頭を下げているのに、偉そうな口調と態度の大臣は頭を下げない。偉そうに見えれば見えるだけ、頭を下げない麻生太郎の態度が、トップとしての責任に目を瞑っているようなイメージを与えた。

というのも、民間企業なら謝罪会見で頭を下げるのが当然、トップとして辞任するべきだと思うからだ。だが、ここには見ている側のバイアスも含まれる。バイアスは思い込みや思考の偏りだ。省庁は民間企業ではなく、大臣は経営者ではない。民間企業の謝罪をステレオタイプとして監督責任を問う声に、麻生太郎は「立場が違う」と述べた。当然、そこにはギャップが生じて批判が起こるが、麻生太郎はそんな批判をものともしない。丁寧に説明することもしない。あの口調と態度で「職責を果たすのがトップの姿」と述べるのだから、ますます大臣としての監督責任を問う声が強まったのだ。

裏表がないから、つい正直に話してしまう

失言や暴言の数々も不遜と思われる一因である。2017年夏、派閥の研修会でナチス・ドイツのヒトラーに触れ「いくら動機が正しくてもダメだ」と、後輩議員らに政治家の心得を述べた。その後、誤解を招いたと発言を撤回。「ヒトラーは動機も誤っていた」と釈明する羽目になった。とはいえ、今の財務省にこそ、官僚としての動機は正しくてもダメだと発言してもらいたかったものだ。

麻生太郎の失言には、このような政治的にタブー視されていることが結構多い。精神障害者への差別的な発言や高齢者医療での「さっさと死ねるように」発言など失言集ができるほどだ。裏表がないから、つい正直に話してしまう。わかりやすく話そうとして、つい言い過ぎてしまう、ということらしいが、似たような失言を繰り返すものだから、反省しない、する気がないと思われる。

「森友のほうがTPP11より、重大だと考えているのが日本新聞のレベル」と、TPPの報道が「新聞に1行も載っていなかった」と不満を爆発させたのは先月の事。これがまったくの事実誤認。謝罪に追い込まれても、立憲民主党の枝野幸男に「当事者意識を欠いた」「新聞を読んでいない」と批判されても、「日経新聞にはこんなちょっと」と悪びれることもない。首相時代は漢字が読めないことでも名を馳せたくらいだから、これくらいのことは意に介さない。

しかめっ面が多い麻生太郎だが、こういう時はどこまでも楽観的なのである。この楽観的な態度が、逆に見ている側には気に障る原因になる。思い込みで相手を非難する、悪びれずに釈明するという態度は、やはり上から目線で、本当に謝罪する気があるのかという印象を与える。積もり積もった過去の実績?が、あの会見への批判へとつながっていく。

野次を浴びせる野党議員に「やかましいな」

前出の研修会では、政治家を「人が良いだけでやれるような職業ではない」と語ったという。不遜に見えるのは、麻生太郎なりのこういう政治家スタイルもあるのだろう。

国会答弁中、野次を浴びせる野党議員に「やかましいな」と斜に構え、ドスのきいたべらんめぇ口調で凄みを利かせていたのは、つい最近だ。なめられるのが嫌いで、すぐに悪ぶる。悪ぶる、強がるのは、家柄がよくお金持ち、お坊ちゃん育ち故に、同級生らになめられやすかっただろう麻生太郎なりの処世術だろう。でも、その態度が、威圧的でちょっと人を小馬鹿にしたようにも見えてしまうのは、育ち故か。

首を傾げて皮肉たっぷりに否定

太田充が本省相談メモを国会で“公文書”と発言した時は、隣で踏ん反り不満そうに首を振っていた。翌日には「『えっ、相談メモが公文書?』というのが私の感じ」と口を尖らせ、首を傾げて皮肉たっぷりに否定した。自分の失言には悪びれずに釈明するが、部下の間違いは皮肉交じりに指摘するから、自分に甘く、他人に厳しくというイメージを与えてしまう。

時には失言が真実になるのも麻生太郎ならでは。2018年2月には佐川宣寿について「色々、虚偽答弁等々ありますけど」と、つい口を滑らせた。国税庁長官に適任と発言したのにもかかわらずだ。人間、そう思っていないと言葉になって出てこない。懸命に忖度する佐川宣寿の何が引っかかったのかわからないが、佐川宣寿の虚偽答弁を快く思っていなかったのだろう。言ってはいけないと思うことほど、口を突いて出てくるものだ。

立憲民主党の海江田に「虚偽答弁があることをお認めになったわけですね」と確認され、「虚偽答弁という指摘もありますが」と訂正。席に着くや渋い表情を浮かべて何やら呟くと、不安からか固く腕組みをしてしまう。「まずかったな」と思ったのか、その後は苦笑いしながら釈明していた。強がって、悪になりきれないのは、やはり育ちの良さだろうか。

それでも、答えられない質問には、うまくかわすがはつかない。麻生太郎は正直なのだ。改ざんを認めた会見では「組織ぐるみでは?」と問われ、左眉をピクリと動かし、「組織ぐるみという定義がよくわかりません」と冷やかに言い放った。今や財務省は組織ぐるみの隠ぺいが問われている。

今さら誰かに認めてもらう必要がない

他人に認められたいなどという承認欲求は、すでに自己実現して首相経験者となった麻生太郎には、もはや必要ないはずだ。だから麻生太郎は、世間やマスコミからの評価も気にならないし、気にしない。今さら誰かに認めてもらう必要がないから、周りに振り回されることも影響されることもない。いい人に見せる必要がないから自由闊達、豪放磊落、自分に正直。それが政治家麻生太郎不遜に見せている。

本質的には自分のことを「人が良い」と思っているのが麻生太郎だ。いや、人が良いのである。そうでなければ、わざわざ政治家について「人が良いだけではやれない」と話しはしない。

政治は「結果が大事」とも、後輩議員たちに語ったという麻生太郎。官邸と財務省の間に立ち、ここぞとばかりに凄みを利かせ、人が良いだけの政治家が出しそうな結果にならないよう、決着をつけられるのだろうか。


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