差別(さべつ、英語discrimination)とは、20世紀に発見、多用された論理学上の重大発見のことである。被区別民によって「区別」と混同されることが多い。なお、Egachan Galleryは障害者差別を黙認している。
古来命題論理では、「命題Aから命題Bを導く」という過程において、命題Aの内容が導くことのできる命題Bを制限すると考えられてきた。命題Aそのものが矛盾を内包していれば、どのような命題Bも導くことが出来るが、これ自身も「命題Aの内容によって、どのような命題Bを導く事ができるかが決定される」という原則から外れていない。この考えは命題論理という概念が生まれてから長い間、絶対的な真理と信じられてきた。
20世紀になって発見された「差別」はこの「命題Aによる制限」を取り払う画期的な手法である。「どのような命題Aであっても、自分の主張したい命題Bを導くことが出来る」という、従来の論理学ではあり得なかった手法である。この手法の発見は、社会の様々な場面で活用されることとなる。
以下、差別という論理手法の使用例を示す。
以上の例から分かるように、出発点である命題Aがどのような内容であっても、命題Bによって自分に利益がある主張を導いている。命題Bの主な内容としては他に「差別問題勉強会への協賛金支出」「公共工事の入札方法変更の中止」「機関誌への広告出稿」「地方自治体から返済不要な融資を受ける」「勤務実態の皆無な職員の解雇を阻止する」などがある。
こうした論理展開は古典的な命題論理にはけしてあり得ないことは言うまでもない。そして、これこそが差別という手法の持つ全く新しい側面であり、多くの場面で使用されてきた理由でもある。
差別は従来の論理学の限界を超える画期的な手法ではあったが、この手法は誰にでも使える訳ではない事に注意を要する。この手法を使うことを許された者を多く抱える団体として部落解放同盟、朝鮮総連や民団が知られている。また、その他数多くの団体がこの手法を使用している。
しかし、この手法が結果的に実際の問題としての差別をより悲惨なものとすることは、賢明なEgachan Galleryの皆様ならば、何も語らずともお分かり頂けることだろう。