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全裸 nude ヌード

全裸(ぜんら)とは、生物として何も足さない、何も引かない、外見的に最も素直で洗練された状態。自然体。等身大の自分。

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古代ギリシアの重装歩兵

概要

生物の大多数は常に全裸である、と指摘するのは衣服に依存してきた人類である。これは生物の中で人類が最も未熟であり、ウソをつくのが避けられない生を歩んでいることを悔やむ心情を示している。まれに自然体でいる人間が見られるが、ひとたびウソツキ人間に発見されると「包み隠せ」などと素直でいることを禁じられてしまう。これは衣服をまとった人々がもつ全裸へあこがれの裏返しであり、もはや病的なまでの嫉妬に狂っているのである。 そして現在、全裸は「見た目が特殊であることから嫌悪の対象となりうる」というでっち上げの根拠をもって有識者の間で常識化されてしまい、一般論として用いられるようになってしまった。このため全裸は差別的な扱いを受けることが多く、様々な問題や衝突を生んでいる。

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全裸に一度なってみたかった残念な人。

人間の場合

全裸でいる人間がいた場合、いくら中立の立場を守る人物ですら「他のヒトと同じように、せめてパンツぐらい着用しなければいけない」と諭すというほど異端視されている。このため公共性の強い場所では、全裸の人間を見かけることは稀である。

差別的な扱い

ほとんどの全裸の人間は罪も何もないが、日本国内や数多くの国で事実上全裸のが町を歩くのが禁止されており、東京では人権活動家兼タレントの草彅剛が自らが悟りを開き全裸になり「裸になって何が悪い」といったことで警察に拘束されるという事件が問題になった。罪のない全裸の人々が警察に現行犯逮捕される事件は世界中であり、とても問題になっているが先進国の町の中で見られる全裸の人々はここ2000年ほどで急激にマイノリティーになりつつあり彼らマイノリティーの人々の保護が棚上げになっている現状がある。 公共性の高い場面ほど、全裸が非難に晒される傾向が強い。近年では「自然体であること」の評価が高まってきたため、全裸を直接批判するのを忌避し、性器または陰毛についてのみ言及するスタイルが多い。

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譲歩案であるにもかかわらず不当に忌避される芸術的な演出の例

全裸という状態

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裸って素晴らしい。

全裸の人間は全体にわたってほぼ単色であり、これが人格の複雑さとのギャップを強く感じさせているのが差別の原因と考えられる。しかし大抵の成人ならば頭髪・眉毛・睫毛・陰毛はそろっており、ある程度はギャップの解消が起こっていると思われる。その証拠に、スキンヘッドかつ全裸の人間と、ただの全裸の人間とをならべてみれば違和感の強さが比較できるはずである。それでもこうした単色であることに由来する全裸への差別感情を気にかけ、さらに自己の身体に消えにくいデコレーションを施す者も多い。

また、全裸の定義に関し、全裸を愛好する者から異論が噴出している。

「全裸差別者が「全裸」を婉曲し、「うまれたままの姿」という呼称を用いることがあるが、ならば我々は全裸ではない」と主張するのである。たしかに新生児は全裸で分娩される。しかし羊水によって全身に亘ってむくんでおり、成人のそれとは似ても似つかない。また成人の裸体が、母体の様々な液体によって常にヌルッヌルになっている訳ではないことからも、納得のいく意見である。

なお「一糸まとわぬ姿」という言い回しも使われるが、全裸愛好者からは「一糸ぐらいなら着用しても構わない」として頭髪や陰毛に黒い糸を一本織り込み、これを根拠に「全裸である」という指摘への抗弁を獲得していることが物議を醸している。

差別への反発

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すこしも寒くないわ

いまだに根強い差別への反発心から、あえて野外を全裸で歩くといった者がひそかに存在する。 当然、往来の多い時間帯・場所では非難や暴行を買うので避け、早朝や夜、昼でも平日はひとけのない公園や山道・海岸などを選ぶようである。もちろんこういった行為が差別感情をもった者に見つからないよう、気をつける必要がある。また、警察の中にもそういった観念に囚われている者も多く、彼らに発見されると拉致・監禁を受けてしまうことがあるため、充分注意しなければならない。

こうした動きに対し、平等を目標に掲げるといった背景のある国においては「ヌーディスト・ビーチ」などの全裸で歩ける野外スポットを設けている場合がある。日本では老人や妊婦、そして差別的扱いを受けた歴史をもつ障害者に対しては、車両に「優先席」を設定するといった優遇措置が存在する。ならば、全裸に対しても優先席程度の配慮があってしかるべきだという声も、当然の意見として受け取らなければならない。

アナと雪の女王が「ありのままの姿を見せるのよ」といっているが、これは世界中の多くの人々に自らの全裸の姿を見せることを推奨している。

普及活動

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件の全裸彫刻

全裸をめぐっての対立は歴史的に古いものであり、各派ともに様々なプロパガンダを行っている。全裸の普及に関しては、芸術家による活動がめざましい。

活動家の中でも最も実績の多い分野である美術を例にとると、過去の作品を参照すればその活躍は一目瞭然である。イタリア・ルネサンス期の巨匠ミケランジェロは老若男女すべての人物を若々しい肉体に描くことにより、全裸のうつくしさや神秘性を世にうったえた。ところがこの時代の差別主義者によって、作品に似つかわしくない不当な修正を加えられた経緯もある。またミケランジェロは、実際の若々しい肉体とのふれあいを目的に全裸彫刻を製作したが、ガラスで仕切られるという妨害工作をまたしても受けてしまっている。こうした精神をうけつぎ、現代の美術家が全裸とのふれあいイベントとして「ヌード・デッサン」を企画することがある。全裸に不慣れな者がヌードを細部にわたって観察することで感化しやすくなるという効果を狙っており、ゆくゆくは参加者全員が互いにデッサンすることを理想としている。

動物の場合

通常、動物の場合は全裸と呼ばれることはない。この理由には、動物が体毛や鱗などに覆われていることが多く、単色の問題が少ないことが考えられる。黒猫の場合はどうするのかとか聞くな。その証拠として、スフィンクスや幼虫、ヌードマウスのような無毛の(実際には少しだけ毛があるが、ほぼ見えない)動物を見ると「キモーイ!」と言われる。逆に無毛女性の全裸を見せれば、たぶん同じ。

しかしながら、この説には近年、様々な反証が挙げられている。その一つが、町を歩く犬たちがしばしば衣服を身につけていることである。この衣服は犬に激しいストレスを与えるシロモノであるが、飼い主達はそれでも服を着せるところから、この衣服が犬にとって、自身の健康以上に大事なものであることが推測できる。

だが野生の動物たちは相変わらず衣服を身につけておらず、謎はますます深まるばかりである。こうした問題についての明確な答えが求められている。

擬人化

アニメマンガおよびイラストにて動物たちが描かれる場合も、やはり上記のように服を着せてしまう風潮がある。 現実の動物をありのまま描写する場合は滅多に見られないが、擬人化という手法で動物たちが描かれるとき、着衣のキャラとして設定されることは少なくない。この点についてやはり全裸愛好家と差別主義者が拮抗しているとみられ、一部の擬人キャラクターだけ全裸であったり、上半身または下半身だけ裸であったり、つねに全裸なのに水泳を行うときだけ水着を着るといったように、表現が錯綜している。また、メディアで避けるべきものとして一定のコンセンサスを得てしまった性器の描写はほとんど表に出てこない、といった問題もある。

接尾語として

「全裸で」という言葉を文末に付加するだけで、文全体を自然体で平和な印象に変えてしまう。いかに特徴的で洗練された修辞法であるかが分かる。

関連項目


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