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筑紫哲也

筑紫哲也(ちくしてつや、1935年6月23日 - 2008年11月7日)は、日本における史上最高にして至宝の、たぐいまれなる才能を存分に発揮して日本に広大なお花畑を作り上げた、真の、いかんともしがたいジャーナリストである。

来歴

1935年、大分県日田市に生まれる。残念ながら正真正銘の日本人であり、筑紫の祖母は滝廉太郎の妹である。よく「筑紫哲也の本名=朴三寿」というコピペを見かけるが、これは2004年6月頃に作られたデマだそうで、一人歩きの結果あっという間に、まことしやかに都市伝説となった。このデマがああも広く流布した原因は、この説を聞いた大衆(ねらー達)が「あ、だからいつもあんな論調なんだ…」とすっぽりまるっと納得してしまったためである。それほどこの説には説得力があり、今なお信じている連中さえいる。しかしこれは逆に言えば、「それがもし真実だったとしたらすべての謎が解ける」、というほど筑紫のジャーナリスト魂が偉大だった証拠である。なお、Wikipediaでこのことに言及するとたちまち削除厨が湧いて人気者になれるので、良い子はマネしないように。

いきなり話がそれたが、そんなこんなで筑紫は早稲田大学政治経済学部経済学科を卒業、朝日新聞に入社してジャーナリストを目指す。記者として返還前の沖縄に赴任、地獄絵図だったという沖縄戦の余韻に浸り、脳ミソを真っ赤に染めた。その後ワシントン特派員として渡米し、外報部次長、編集委員などを歴任して着々と報道技術その1を習得、ジャーナリズムの帝王になる野望を涵養する。日本に戻ったあとは政治部記者として三木武夫の番記者を務め、自民党のハトにエサをやるなどして親交を深めた。

キャスターとして

1977年10月から1982年9月まで、『日曜夕刊!こちらデスク』のメインキャスターを務める。この番組の1979年4月1日の放送において「宇宙人との交信が成功した」と発表し、それにより生放送中に抗議の電話が殺到するという事件を起こす。もちろんオーソン・ウェルズの「火星人襲来」になぞらえた四月馬鹿であるが、それをやってのけられるほどの「報道技術」はまだ備わっておらず、かくして彼の最初の挑戦は大失敗に終わった。あとに残ったのは、公共の電波を使って冗談を言ってはいけないという言わば当たり前の教訓だけであった。しかしこのことはのちの筑紫の報道姿勢に少なからず影響を及ぼすことになる。

1984年から87年までは朝日ジャーナルの編集長を務める。そこでは「時代の気分を探る」という名目で新人類たちと対話。これを通して「まじめだけど話のわかるおじさん」という自らのイメージを作り上げるとともに、「新人類」という言葉を流行語に押し上げる実験を敢行する。「新人類」という語は思惑通り流行語となり、筑紫は先の失策を挽回して高い評価を得る。その後ますます報道技術その2に磨きをかけた筑紫は、1989年10月、TBSにヘッドハンティングされ『筑紫哲也 NEWS23』のメインキャスターに就任。ついにジャーナリズムの王座につく。筑紫はこの番組で「討論会に限りなく近い何か」を頻繁に主催し、司会として報道技術その1と報道技術その2をいかんなく発揮した。ここでこの「討論会に限りなく近い何か」で使用された奥義をいくつか紹介しよう。報道を志す諸君はぜひ参考にしてほしい。

こうしたテクニックを駆使していることは無論バレてはいけないが、その心配はなかった。なぜなら当時の視聴者はカボチャ同然だったからである。かくして『NEWS23』は60年代に左翼運動に没頭したオヤジ連中(当時40代~50代の団塊世代)にバカウケし、「報道のTBS」という今では信じられない栄冠をほしいままにした。なお、この時開発された手法は今も一部のテレビ局で受け継がれており、報道番組や討論番組を作る際の基本となっている。さらに近年では「都合の悪いニュースは存在自体を無視する」という手法が加わり(スルーの手法=報道技術その4)、筑紫が最初に体現した報道技術の大系はまさに輝かしい進化を続けている。

なお、筑紫は報道技術その3をほとんど使用しなかったことで知られる。その1とその2があればコト足りたので、その3を使う必要がなかったのである。このこともまた、筑紫の報道技術がいかに優れていたかを物語っている。

伝説の数々

ニュースキャスターとしての手腕を確立させた彼は、久米宏と視聴率をめぐり熾烈な戦いを繰り広げる一方、数々の伝説を作る。『NEWS23』以前のものも含めて、以下に代表的なものを列挙する。

愛煙家としての側面

ハイライトとマルボロの赤を1日3箱吸っていたというヘビースモーカーで、肺がんになって禁煙した後も、

などと発言、真のジャーナリストとして世の嫌煙ファシズムに激しく抵抗した(これが筑紫の残したもっとも偉大な業績であると評価する者もいる)。嫌煙家たちが筑紫を悪の象徴に仕立て上げたのは言うまでもない。世の中の禁煙団体はことごとく筑紫を目の仇にし、中にはあらぬ噂を立てる者もいた。たとえば有名なのが、「私は、これで、会社を、やめました」という禁煙パイポのCMは、当時「朝日ジャーナル」の編集長をやめようとしていた彼に対するあてつけではなかったか、という噂である。もちろん真偽のほどはわからず、嫌煙家たちは日増しに不満をつのらせて行った。そしてそれは筑紫の死去の際に祭となって噴出する。

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禁煙に挑戦するニコチン中毒者の中には、このキャラクターを筑紫と重ね合わせ、鬱状態になる者も続出した

闘病生活へ

2007年5月14日放送の『NEWS23』オープニング直後の「多事争論」で、肺がんになったことを発表。『NEWS23』を休演、タバコもやめ、治療に専念する。筑紫入院の報を受けて2ちゃんねるでは、嫌煙板の連中とオカ板の連中が共同で「筑紫哲也の一刻も早い死亡を祈るスレ」を立て、全員で加持祈祷を取り行った。極東板やハン板や政治板の連中が裏で糸を引いていたのは言うまでもないが、実際に踊っていたのは中二病の新参ネットウヨたちである。一方、傍観者たちは、たった5分足らずの多事争論でここまでウヨ共を動員できるものか、と改めて筑紫の人気に嫉妬した。無論一部には「(病人の死亡を祈るなど)さすがにそれはやりすぎでは」という声も聞かれたが、誰も気にしなかった。

治療に入ったあともしぶとくスペシャルアンカーとして『NEWS23』に出演する。出演は数カ月おきではあったが、鬼籍に入る直前まで続いた。以下に最後の多事争論を引用する。

近ごろ「論」が浅くなっていると思いませんか。その良し悪し、是非、正しいか違っているかを問う前に。ひとつの「論」の専制が起きる時、失なわれるのは自由の気風。そうならないために、もっと「論」を愉しみませんか。

美辞麗句に飾られているため非常に意味が汲み取りにくいが、これを正しく超訳すると、意味は以下のようになる。

近ごろ印象操作の手法が浅はかになっていると思いませんか。麻生太郎のバー通い、田母神論文、定額給付金をあげつらう前に。ネガキャン一辺倒になるとき、国民は嫌気がさし、結果的に失われるのは自虐反日の気風。そうならないために、もっと世論誘導の技術を磨きませんか

と、つまりはこういうことである。要するに拙い後輩どもに向けた諫言なのだが、マスコミフィルターがかかってしまうと途端にイミフになってしまうから困りもんである。まあ現実的にはアレだ、偉大なジャーナリストが残した最後のきれいごととして、数世紀にわたって語り継がれることになるんである(予定)。

死去

2008年11月7日死去。73歳没。マスコミ各社は一斉に追悼特集を組み、「(裏読みな意味で)偉大なジャーナリストを失った」という論調で統一した。中には番組の後半を丸々使っての祭を組んだ番組(NEWS23)もあったが、その内容は非常に濃密で、とても死んでから急ごしらえしたものには見えなかった。闘病前から準備してたのではないかとの疑惑が持ち上がるとともに、筑紫の死去を最も待ち望んでいたのは後藤なんとかという後任キャスターだったのではないか、と取り沙汰された。

マスコミ各社の論調が追悼一色で統一されていたのに対し、ネット上では世論が二分した。「タバコ吸いまくって肺癌になった奴に同情の余地はない」と主張する嫌煙厨と、「戦後日本の過度な左傾化を象徴する奴がようやく死んだ、祝杯をあげよう」と主張するネットウヨたちである。両者の間で無意味な諍いが頻発したが、結局はとりあえず時間の無駄を省くために「ご冥福をお祈りします」という呪文で意見の一致を見た。もはや知ったことではない。いずれにせよ一つの時代が終わったのである。

業績と評価

筑紫に対する歴史的な評価はまだ下されておらず、今後の論を待つしかない。まあどうだっていいが、忘れないうちにやっといたほうが無難である。とりあえずは現段階で評価が確定しているものを以下に列記する。

脚注

関連項目


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Last-modified: 2020-01-01 (水) 18:40:51