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朝鮮の歴史

朝鮮の歴史 (ちょうせんのれきし) とは、中国、モンゴル、日本に思いのままに振り回されただけの矮小なる民族による見る影もなき歴史である。なお、この記事は自由と民主主義を体現する偉大なる某組織の比類なき天才会長による無謬なる研究成果に基づくものであり、某組織のすべての会員が史実と受け入れているものである。この項では大日本帝国による解放活動が始まるまでを記述する。

新羅と百済、伽耶

この弱小民族による歴史は、先進なる日本列島の住民が半島へやってきて、新羅、百済、伽耶という3国家を打ち立て、土民どもの文明化ミッションに乗り出したことにはじまる。日本列島とのつながりは時と共にやがて薄れていき、それと共に野蛮の世界が再度蹂躙し始めたが、3世紀に神功皇后がこれらを征討すると、再び文明の世界に帰った。その後は土人の要請で伽耶におおやまとの出張所ができ、そこを中心に地域の治安が保たれていた。ところが、7世紀に伽耶生まれの売国奴キム・ユシンが日本を裏切って主君の善徳女王を暗殺して、新羅を唐に売り飛ばすという蛮行に踏み出し、大粛清を行って百済を滅ぼしてしまった。文明なる日本国は百済のために出兵したが、ユシンの想像を絶する蛮行の前に白村江で手を引くことになった。ユシンは日本の痕跡を消し去るために、穴兄弟義兄弟キム・チュンチュの仕業に見せかけたり、文献破壊などあらゆる愚挙を積み重ねたが、日本文明の影響はそれを免れた考古遺物にしっかりと刻まれている。

なお、一部の半島人は北にあった高句麗や渤海を自分の民族の国とみなしているようだが、これは漢民族以外の中国人と雄大なるモンゴル人の混成国家である。卑劣なる半島人はこの国の領域が今の自分達よりはるかに広いことを妬んで自分の民族の国に編入しようと本気で妄想しているが、理性ある日本人はくれぐれも巻き込まれぬように。

高麗

傀儡国新羅は後ろ立てだった唐の巻き添えになって10世紀に滅び、代わりに「百娘の君主」王建(ワン・ゴン)が伊達政宗のパクリを謀殺して高麗を立てた。同国は上に挙げた高句麗の後継国家であり、実をいうと国家の支配階級は初めからすべてモンゴルの遊牧民で占められていた。これは、半島南部の全羅道の者が政府に仕官できなかったことに現れている。この国はモンゴル人のおかげで、新羅や後の朝鮮王朝よりも栄えた。英名がKoreaなのは、この国の名称がなまったものである。

しかし、時と共にモンゴル人の血が薄れていくと武道精神がおろそかになり、13世紀にやってきたチンギス・ハーンの子孫たちに思う存分エクストリーム・大虐殺を受けることになった。この時多くの文物が燃やされた。とこれまで考えられていたが、最近の研究ではキム・ブシクの三国史記に充満する儒学的要素を高めるために、半島の土人が先頭に立って先祖の文物を焼却した史実が明らかにされてきている。

そして大元帝国の忠犬となった高麗の忠烈王は13世紀、偉大なる皇帝全世界史の創設者にして劣等漢民族にミャンマー支配の夢を与えし天恵の将帥たるフビライ・ハーンの反対を押し切って、文明の使者たる鎌倉幕府の討伐に乗り出した。しかし、すぐ沈む船では対馬海峡を渡るのが精一杯であり、世界最強のサムライに勝てるわけなどなかった。懲りずに忠烈王は漢民族を無断で徴収して2度目の攻撃を行ったが、神風がやってきて全滅した。中国に合わせることしかできない高麗の将軍達は自分の意志でモンゴルの衣装をつけていた。

これを見た日本のサムライは襲撃犯がモンゴルだと勘違いし、この事件は元寇という名前で記録されることになった。しかし、誇り高き真のモンゴル人が本気を出せば、数に劣るサムライがここまで無傷でいられただろうか。それは違う。実は元寇とは、弱小なる高麗がフビライの反対を無視して行った違法な先制攻撃だったのだ。この歴史の真実は近年、モンゴル学の権威宮脇淳子により暴露された。

その後、この歴史の真実を熟知していた九州の偉大なる英雄集団倭寇によって、報復作業がたっぷりと進行した。ただし、倭寇たちはあくまで平和な交易の民であり、向こうが金を払わなかった正当なケースの時のみ襲撃に及んだのは当然のことである。

朝鮮王朝前期

そんな倭寇の征伐に無理やり駆り出されていたモンゴル人イ・ソンゲは、14世紀敬愛するアギバト寇から神託を荒山の地で授かった。明への無謀な出撃に駆り出された時に国を裏切れば、やがては国を救う英雄になれるという神託だ。ソンゲは早速威化島で神託を実行に移して高麗の王を殺害、シナ系日本人にすべての道理を教わった「永遠の忠臣」チョン・モンジュまでも橋の上で殺して天下をとった。ソンゲは早速「謀略の神様」鄭道伝(チョン・ドジョン)を明に派遣して朝貢させ、新たな国づくりに乗り出した。

ドジョンはどのにも声をかけられたことのない自分の境遇を想起して、今でも全童貞の敬愛する偉大なる復讐作業に着手した。自分の考えた「儒学の教え」にのっとり、が一生会話しなくてもすむ社会をつくろうと志したのだ。早速同志たちが集って、自由恋愛を楽しんでいた妬ましき高麗の旧臣たちの粛清作業に着手した。さすがに行き過ぎがあってドジョンは3代の「残虐の覇王」李芳遠(イ・バンウォン)に処刑されたが、その後もこの基本路線が揺らぐことはなかった。

彼らは学問重視を唱えたが、それは口先だけのことだった。科学技術などの知識はモテモテの庶民どもがやれば良いと保護の対象にもしなかった。4代王はウリナラのハングルを製作したが、これはもちろんモンゴル人の学問成果を窃盗したものである。唯一の世界史的業績となった同文字もやがては「嫉妬の帝王」燕山君によって廃止され、土民は無知なまま放っておかれた。普通儒学といえば礼儀作法が連想されるが、朝鮮儒学の本質とは「女への妬み」であり、16世紀には「半人の楊貴妃」ファン・ジニを巡って支配階級両班が内輪争いを始め、以後も些細なことで恋敵を追い落とそうとした。

豊臣秀吉の解放活動

こうして知をひけらかす両班たちが、本当は自分より賢いお嬢様を巡って相争っている時、日本の「金色のハヌマーン」豊臣秀吉がありがたくも100人のと同時に××する手法を教えてやろうと軍を起こした。秀吉は現地の土民から解放者とまつり上げられ、加藤清正などの将軍の下には、土民たちが殺到して感謝のために自分の耳を切って捧げに来た。だが、加藤らはそれを断って、キムチの味を教えてやり、更に土民たちを苦しめていたトラを絶滅させてやった。

しかし、日本の戦国時代に憧れていた当代一の戦国武将マニアだった一将軍李舜臣は日本の解放軍と勝負することを望み、閑山島で「淡路の海将」脇坂安治を酷く打ち負かした。これを機に両班どもは奮起し、秀吉の軍勢を追い返した。両班たちは用済みになった李舜臣が秀吉に連れられてきた大勢のを歓待しているのをみて憤慨し、早速無実の内通罪で李舜臣を投獄した。

ところが、日本軍は再度攻めてきて、南の晋州城を落とした。日本の立花ざん千代に憧れていた城主の愛人ノンゲは、宴会に浮かれる毛谷村六助を刺殺して、自分も死んだ。この忠義をみた義理深きサムライたちは我に帰り、撤収への準備を始めた。

李舜臣はこれを聞いて戦が終わると両班どもに処刑されると脱獄、日本に亡命しようと憧れの島津義弘公の船を追いかけたが、出会う寸前で無能な両班の船に後ろから狙撃されて亡くなった。島津は後にこのようにコメントした。

「ふーん、あの時確かに後ろから変な銃声がしたが、そういうことだったのか。朝鮮は惜しい才能を無くしたな」

朝鮮王朝後期

秀吉侵攻の後、朝鮮王朝には宗主国の明から儒学的でない文化が流れ込んできた。その「悪風」を受けて、中には漢詩をなす奇怪な女流詩人まで現れた。日本と慰安婦協定を結んでなんとか和解した両班たちは、これはが社会を支配し、朝鮮王朝の基本秩序を脅かす予兆だとうろたえた。

これを聞いて「虐夫の模範」金誠立(キム・ソンニプ)は敢えて彼女と結婚し、徹底的に彼女の才能を封殺して若いうちに芽をつんだ。その後キムは当時の国王で現実をよく見据えていた光海君を廃し、儒学以外何のとりえもなかった仁祖を新王にして、モンゴルの仲間女真族の建てた大清帝国を滅ぼそうと訴えた。彼女の弟だった「平等の盟主」ホ・ギュンは民衆を率いて彼を止めようとしたが敗れ、執筆した盗賊小説も手伝って両班から民族史上最大の中二病患者とされた。

ちょうどその頃「月の前のスッポン」林慶業(イム・ギョンオプ)らが生まれたての清に向かって無謀な出撃を行い、サルフの地で鉄砲を独占しておきながら敗れるというなんとも朝鮮人らしい戦果を挙げた。寛大なる清のホンタイジ帝はこれを受けて早速朝鮮を滅ぼそうとしたが、自分の領民にするだけの価値はないと判断して、三田渡で朝貢の儀式をとる程度で済ませてやった。ホンタイジ帝はやがて明を滅ぼして中原を制圧したが、何を考えたのか両班たちはこれで自分たちこそが真の中華となったと思い違い、「儒学の妄鬼」ソン・シヨルらが国力を無視して清を征伐しようとした。だがその兵力を知った慈悲深き清の康熙帝は家臣たちと共に「妄想の中だけの明国」を崇める朝鮮を笑いの種にしていたという。

両班たちは男を磨くことも忘れなかった。彼らの歴史認識では「恨の嬢王」許蘭雪軒を虐げたキム・ソンニプが「光の勇者さま」となり、に殺された毛谷村六助は男を売った「売雄の根源」となった。韓国の反日主義はこれが起源である。それでも、真に怖い女たちは恐怖の対象になったらしく、18世紀には「清の皇帝陛下さま、どうか野蛮なる我が国の妖婦チャン・ヒビンを殺して下さい!」などと燕行使が依頼しにいく事態になった。

こんな国に関心を抱く西洋人宣教師などほとんどいなかったが、それでも物好きはいるもので、18世紀にやっと初のキリスト教信者が現れた。折しも祖父に父を米櫃の中で殺され、儒学に疑問を抱いていたイ・サン王正祖は例外的にも彼らの実学に目を向けていたが、国力をしっかり見据えよという声を受け入れることはできず、やがて1800年に正祖が殺されると、実学を敵視してやまない固陋なる儒学原理主義者によって時代に先駆けたキリスト教徒たちは次々と殺されていった。

ここまでが、大日本帝国の解放事業が始まるまでの朝鮮史のあらましである。

市民の感想

※我々日本人は天皇も含め、朝鮮半島をはじめとする大陸から渡ってきて、アイヌは北(北海道)と南(沖縄)に散らばった。この記事を書いた日本人よ恥を知れ! ※もっと視野を広げて、未来に向かって国際的に生きるべし!人生においての負け犬の遠吠えにしか聞こえない。

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Last-modified: 2020-01-28 (火) 15:18:57