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第二次世界大戦

第二次世界大戦とは、1939年~1945年に勃発した人類史上二度目の世界戦争である。

ここでは1939年のドイツ軍によるポーランド侵攻から1945年のポツダム宣言受諾までを簡潔に記述する。

概要

- 前 大 戦 と の 比 較 -

この戦争は、連合国(アメリカ合衆国ソビエト社会主義共和国連邦中華民国イギリスフランス)と枢軸国(日本ドイツ、イタリア)間の戦争で、両陣営合計で全49ヶ国が参戦、動員兵力数が1億1000万人と 人類史上最大の戦争となった。

第一次世界大戦(1914~1918)との大きな相違点は、

以上の点から、おそらく史上最多の非戦闘員(民間人)の死者を出した戦争でもある。

- 参 戦 国 -
連合国
アメリカ合衆国イギリスフランス
中華民国ソビエトオーストラリア
カナダオランダニュージーランド
その他多数。
V S
枢軸国
日本ドイツイタリア
ブルガリアハンガリーギリシャ
タイ王国フィンランドルーマニア
その他多数。

ヴェルサイユ条約や世界恐慌の危機から広大な植民地を持たず、資本主義の基盤が脆弱な国家(ナチス・ドイツ、イタリア王国、大日本帝國)が軍事的圧力を強め、国際連盟を脱退する。

その後「日独伊三国軍事同盟」が結ばれ、後の「枢軸国」の中心となり、世界を二つに分ける。

枢軸国の名称は、ムッソリーニがローマとベルリンを結ぶ垂直線を枢軸として国際関係は転回すると演説したことに由来する。

ナチスドイツ

ヴェルサイユ体制やマルクス主義の打破、反ユダヤ主義を掲げる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が1932年に共産党の進出を恐れる保守派の支持を得て、総選挙で第1党に躍進する。その後1933年に、ナチスの党首・指導者であるアドルフ・ヒトラーが首相に就任し、国際連盟を脱退。

翌年には総統となり、ナチスの独裁を敷いた後、大日本帝國と「日独防共協定」を結び、その後1940年にイタリア王国、大日本帝國と「日独伊三国軍事同盟」を結んだ。

大日本帝國

日中戦争の進展を狙い、ナチス・ドイツ、イタリア王国と「日独伊三国軍事同盟」を結ぶ。しかし、アメリカや英国などから石油の貿易制限(ABCD包囲網)が掛けられる。

自給自足体制を敷くため早期開戦を余儀なくされた日本は、 東南アジアに軍を進めて資源を手に入れると同時に、アメリカイギリス中国への支援ルートを遮断するため 東南アジアへと侵出する。

イタリア王国

1928年に、ベニート・ムッソリーニを議長とする「ファシズム大評議会(ファシスト党)」が国政の最高機関となった事で、ファシスト党の独裁体制を確立。反対勢力を排除していった。

更に1937年に国際連盟を脱退。 1939年に「独伊軍事同盟」を結び、翌年にイギリスフランスへ宣戦布告。また、自国の発言力を高めるため大日本帝國・ナチスドイツと「日独伊三国軍事同盟」を締結する。

開戦期(1939年)

ポーランド侵攻

1938年、ナチス・ドイツはオーストリアを併合し、その後チェコスロバキアの解体および併合と保護国化を強行した。ドイツ民族の地域を併合していく先は最終的に東プロイセンとの間にあり、ダンツィヒを含むポーラ ンド回廊に向けられることとなる。

ダンツィヒ及びポーランド回廊は第一次世界大戦におけるドイツの敗北によりドイツから奪い取られた領土であった。またポーランド回廊は東プロイセンとの間を埋めるために必要であった。

ドイツはダンツィヒの編入とポーランド回廊の自由通過を要求するが、英仏から独立保障を受けていたポーランドはこれを拒否した。ドイツ陸軍参謀総長フランツ・ハルダーはポーランド侵攻計画「白の場合」を起案。攻撃は宣戦布告より前に行われることになっており、空軍と陸軍の連携の元に速やかに包囲殲滅を狙った。

そして1939年9月1日にドイツ空軍がポーランドの都市ヴィエルニを空爆したことにより、ポーランド侵攻作戦は始まった。ポーランド側の計画では、国境でドイツ軍を足止めしつつ、英仏同盟国の援軍を待ち、動員が完了しだい英仏連合軍に呼応して攻勢をかける手はずだった。

しかし、計画は裏目に出た。ポーランド陸軍の兵力はドイツとの国境に細長く引き伸ばされており、しばしばドイツ機甲師団に包囲された。

英仏は9月3日、ドイツに宣戦布告し、ここに第二次世界大戦が始まる。しかし両国はドイツには宣戦布告したが、救援のためポーランドまで進軍してドイツ軍との交戦は行わなかった。またアドルフ・ヒトラーは、以前から宥和政策を実施し、反共産主義という点で利害が一致していた英仏両国が、宣戦布告してくると想定していなかった。

装備、錬度、数的優位に立つドイツ軍に対し、ポーランド軍はソ連との国境まで後退を余儀なくされる。これに対しソ連は事前の秘密協定に基づきソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄してポーランドへ東から侵攻。カーゾン線まで達した。一方、ポーランドとの相互援助協定が有るにもかかわらず、英仏は、ソ連に対し宣戦布告を行わなかった。予想外の攻撃にポーランド軍は壊滅し、中立国のルーマニアへ脱出。よって独ソ両国は、僅か1ヶ月後の10月6日にポーランド全域の占領に成功した。

その後ポーランドは独ソ両国に分割され、ドイツ軍占領地域から、ユダヤ人のゲットーへの強制収容が始まった。ソ連軍占領地域でもカティンの森事件で25,000人のポーランド人が殺害され、1939年から1941年にかけて、約180万人が殺害又は国外追放された。

冬戦争

一方ソ連軍は11月30日、多数の戦車と航空機を投入し、フィンランド領内へ侵攻を開始した。対するフィンランド軍は、装備は旧式のままで多くの人々からフィンランドが降伏するのは時間の問題だと 考えられていた。しかし、フィンランド軍の士気は非常に高く、火炎瓶やカモフラージュを用いた狙撃に ソ連軍は多大な被害を負った。これを受けてアドルフ・ヒトラーは、ヨシフ・スターリンの大粛清によりソ連軍の錬度が落ちているというドイツ諜報部の情報を確信した。

また、豪雪が冬季戦闘の準備を十分にしていなかったソ連軍を容赦なく襲った。 それでもなおソ連軍の物量に抗することはできず、ついにフィンランドは肥沃な都市部であったカレリア地帯を割譲すると言う屈辱的な講話を余儀なくされる。後に彼らはアドルフ・ヒトラーと手を結んで一度は領土奪回を帰するが、21世紀現在になっても返還されていない。

なお、冬戦争によりソ連は国際連盟を除名された。日本ドイツ、イタリアに続き、ソ連が国際連盟から脱退・除名となり、相次いで大国が抜けたことで、国際連盟はますます形骸化した。

枢軸国の攻勢期(1940年~1941年上半期)

まやかし戦争からフランス降伏まで

1939年、ドイツのポーランド侵攻を機にイギリスフランスドイツに宣戦布告した。しかし、ポーランドが戦争中は独仏国境があるはずの西部戦線では大規模な戦闘はほとんど行われず、ファニーウォー(まやかし戦争)と呼ばれる膠着状態が続いた。

とはいえ、停滞気味な陸上に比べ、海上ではラプラタ沖海戦のように活発な戦闘行為が行われていた。

1940年4月、ドイツは中立国であったデンマークとノルウェーに突如侵攻し占領した(ヴェーザー演習作戦)。しかし、ノルウェー侵攻で脆弱なドイツ海軍は多数の水上艦艇を失った。5月10日、西部戦線のドイツ軍は、戦略的に重要なベルギーやオランダ、ルクセンブルクのベネルクス三国に侵攻。オランダは5月15日に降伏し、政府は王室ともどもロンドンに亡命。またベルギー政府もイギリスに亡命し、5月28日にドイツと休戦条約を結んだ。なおアジアにおけるオランダ植民地は亡命政府に準じて、連合国側につくこととなる。同じ日、イギリスではウィンストン・チャーチルが首相に就任し、戦時挙国一致内閣が成立した。

ドイツ軍は、フランスとの国境沿いに、ベルギーまで続く外国からの侵略を防ぐ楯として期待されていた巨大地下要塞・マジノ線を迂回。侵攻不可能と言われていたアルデンヌ地方の深い森をあっさり突破して、フランス東部に侵入。電撃戦で瞬く間に制圧し、英仏連合軍をドーバー海峡に面するダンケルクへ追い詰めた。

一方、イギリス海軍は英仏連合軍を救出するためダイナモ作戦を展開。その際、ドイツ軍が消耗した機甲師団を温存し妨害作戦に投入しなかったため、またイギリス空軍の活躍により、約3万人の捕虜と多くの兵器類は放棄したものの、陸上部隊は撤退に成功。6月4日までにダンケルクから約34万人もの英仏連合軍を救出した。

敗色濃厚なフランス軍は散発的な抵抗しか出来ず、6月10日にはパリを放棄した。同日、フランスが敗北濃厚になったのを見てムッソリーニのイタリアも、ドイツの勝利に相乗りせんとばかりに、イギリスフランスに対し宣戦布告。6月14日、ドイツ軍は戦禍を受けていないほぼ無傷のパリに入城した。6月22日、フランス軍はパリ近郊コンピエーニュの森においてドイツ軍への降伏文書に調印した。なお、降伏に際して第一次世界大戦時ドイツ軍が降伏調印した際に使用した客車を博物館から取り寄せ、調印した時と同じ場所に据えた。その後、ドイツによるフランス全土に対する占領が始まった直後、講和派のフィリップ・ペタン元帥率いるヴィシー政権が樹立される。

一方、ロンドンに亡命した元国防次官兼陸軍次官のシャルル・ド・ゴールが「自由フランス国民委員会」を組織する傍ら、ロンドンのBBC放送を通じて対独抗戦の継続と親独的中立政権であるヴィシー政権への抵抗を国民に呼びかけ、イギリスアメリカなどの連合国の協力を取り付けてフランス国内外の抵抗運動を支援した。

7月3日、イギリス海軍部隊が、、ドイツ側戦力になることを防ぐべくフランス植民地アルジェリアのメルス・エル・ケビールに停泊していたフランス海軍艦船を攻撃し、大損害を与えた(カタパルト作戦)。アルジェリアのフランス艦艇は、ヴィシー政権の指揮下にあったものの、ドイツ軍に対し積極的に協力する姿勢を見せていなかった。それにも拘らず、連合国軍が攻撃を行って多数の艦艇を破壊し、多数の死傷者を出したために、親独派のヴィシー政権のみならず、ド・ゴール率いる自由フランスさえ、イギリスアメリカの首脳に対し猛烈な抗議を行った。また、イギリス軍と自由フランス軍は9月にフランス領西アフリカのダカール攻略作戦(メナス作戦)を行ったがフランス軍に撃退された。

ゼーレヴェ作戦とバトル・オブ・ブリテン

ヨーロッパから連合国を駆逐したドイツ軍はイギリス本土の制圧に乗り出す。このイギリス本土上陸作戦をゼーレヴェ作戦と呼ぶ。なお、「ゼーレヴェ」とはドイツ語でアシカを意味する。

1940年7月16日付の総統命令でアドルフ・ヒトラーは作戦実施の最低条件を以下のように提示した。


イギリス空軍は物心ともに完膚なきまでに叩き潰されるべきで、我が軍の通行を妨げようとするいかなる余力すら残してはならない。
イギリス海峡に敷設されたイギリス軍の機雷は全て撤去され、またドーバー海峡の両端は我が軍の機雷によって封鎖されなくてはならない。
占領下にあるフランスイギリスの間の沿岸水域は我が軍の重砲によって制圧されなければならない。
イギリス海軍海上部隊は、上陸作戦に介入できないよう、北海および地中海で拘束しなければならない。航空攻撃ないしは魚雷によって損傷、あるいは破壊することが望ましい。


このように、イギリスに上陸し、ロンドンを制圧するためにはドーバー海峡およびブリテン島南部の制空権・制海権が必要だった。

ドイツイギリス上陸を決め込むと制空権確保のための独英航空戦が本格化した。チャーチル首相の演説を引用して、これをバトル・オブ・ブリテンと呼ぶ。

まず上陸作戦の前哨戦として、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングは、8月13日から本格的に空爆を開始するよう指令。この頃、イギリス政府はドイツ軍の上陸と占領に備え、王室と政府をカナダへ避難する準備と、都市爆撃の激化に備えて疎開を実施。イギリス国民と共に、国家を挙げてドイツ軍の攻撃に抵抗した。

イギリス空軍は、スピットファイアやハリケーンなどの戦闘機や、当時実用化されたばかりのレーダーを駆使して激しい空中戦を展開。ドイツ空軍は、 He 111や Ju 88などの爆撃機で、当初は軍需工場、空軍基地、レーダー施設などの軍事施設を爆撃していたが、ロンドン市への誤爆とそれに対するベルリン市への報復爆撃を受け、最終的にロンドン市へと爆撃目標を変更した。しかし、 Bf 109戦闘機の航続距離不足で爆撃機を十分護衛できず、爆撃隊は大損害を被り、また開戦以来、電撃戦で大戦果を上げてきた急降下爆撃隊も大損害を被った。その結果、ドイツ空軍は9月15日以降、昼間のロンドン空襲を中止した。

このように当初はドイツ空軍が優勢だったが、イギリスの物量と最新鋭レーダー網、イギリス人の忍耐強さにより、戦況は徐々にイギリスに傾いていく。

これに加え、バトル・オブ・ブリテン後半に基地よりも戦略的価値のない都市の無差別爆撃を行うようになったというドイツ空軍の戦略が失敗したことも大きな原因である。

特にドイツ空軍によるロンドン大空襲はイギリス人の戦意を挫くどころか、逆に彼らの復讐心を煽り、彼らを一致団結させた。

こうしてドイツ空軍は制空権を獲得出来なかった。

また、英独海軍戦力にもともと大きな差があるだけでなく、デンマーク・ノルウェー侵攻の際に多数の駆逐艦を失ったことで制海権の確保、イギリス海軍の拘束という上陸作戦実施の条件を何一つ果たせなかった。

制空権・制海権を確保できず、ゼーレヴェ作戦は無期限延期(事実上の断念)となった。

戦線の拡大期(1941年下半期)

バルバロッサ作戦からの独ソ戦開始

1941年に入るとドイツ軍はバルカン半島の国々を次々と占領し、ソ連と国境を接し、関係が悪化する。

短期決戦どころかイギリスとの戦闘が泥沼化したドイツソ連を屈服させれば対英交渉も有利に持ち込めると考えるようになった。何より東方への生存圏拡大を主張してきたアドルフ・ヒトラーにとってソ連は倒さなければならない宿敵であった。

6月22日、ドイツは不可侵条約を破棄し、バルバロッサ作戦を発動、独ソ戦が始まった。

北はフィンランドから南は黒海に至る線から、イタリア、ルーマニア、ハンガリーなど他の枢軸国と共に約300万の軍で対ソ侵攻作戦(バルバロッサ作戦)を開始した。6月26日、冬戦争以来の因縁からフィンランドがソ連に宣戦布告し継続戦争も併行して勃発した。開戦当初、赤軍(当時のソ連軍の呼称)の前線部隊は混乱し、膨大な数の戦死者、捕虜を出し敗北を重ねる。歴史的に反共感情が強かったウクライナ、バルト諸国などに侵攻した枢軸軍は共産主義ロシアの圧政下にあった諸民族からは解放軍として迎えられ、多くの若者が武装親衛隊に志願することとなった。また、西ヨーロッパ各地からもフランス義勇軍 などの反共義勇兵が枢軸国軍に参加した。

ドイツ軍は7月16日にスモレンスク、9月19日にキエフを占領。さらに北部のレニングラードを包囲し、10月中旬には首都モスクワに接近。市内では一時混乱状態も発生し、約960km離れたクイビシェフへの政府機能の一部疎開を余儀なくされた。しかし、急激な侵攻を続けていたドイツ軍は、その頃から泥まみれの悪路に悩まされ、加えて補給の滞りから進撃の速度が緩んだ。またソ連軍の新型T-34中戦車、KV-1重戦車、カチューシャ・ロケット砲などに苦戦。そして冬に備えた装備も不足したまま、11月には例年より早い冬将軍の到来で厳しい寒さに見舞われる。

8月9日にイギリスアメリカは領土拡大意図を否定する大西洋憲章を締結し世界に発表した。8月25日、ソ連イギリス連合軍は中立国のイランに南北から進撃すると直ちに占領下においた(イラン進駐)。イラン国王は中立国のアメリカに連合軍の攻撃を止めさせるよう訴えたが、ルーズベルト大統領は拒絶した。イランを占領下においたことでペルシア回廊を確保したイギリスアメリカソ連への大規模軍事援助を行うことに成功した。

ポーランドとフィンランドへの侵攻、バルト三国併合などの理由で、それまでソ連と距離をおいていたイギリスアメリカは、独ソ戦開始後、ソ連イギリス側に受け入れることを決定。武器貸与法にしたがって膨大な物資の援助が始まる。一方、ドイツ日本に対し、東から対ソ攻撃を行うよう働きかけるが、日本は独ソ戦開始前の1941年4月13日には日ソ中立条約を締結していた。また南方の資源確保を目指した日本政府は、東南アジアなどの南方面進出を決め、対ソ参戦を断念する。

ソ連はリヒャルト・ゾルゲなど日本に送り込んだスパイの情報により、この情報を察知し、極東ソ連軍の一部をヨーロッパに振り分けることができた。ドイツ軍は厳寒の中、11月半ばにはモスクワへの進攻を再開し、モスクワ近郊約23kmにまで迫ったが12月5日、赤軍は反撃を開始してドイツ軍を150km以上も撃退した。ドイツ軍は開戦以来、かつて無い大敗北を喫した。

当初赤軍はヨシフ・スターリンが1930年代に行った大粛清によって弱体化していた上に、ドイツ軍の侵攻に準備していなかった。むしろ、精鋭部隊は、満州国とシベリアの国境線に配置していたことから、日本との開戦を想定していた模様。これは、日ソ中立条約は結んでいたものの、ノモンハン事件など、日ソ関係は消して良好とはいえなかったからである。

そのためにドイツ軍は快進撃を続け、モスクワ郊外まで迫った。(ただし近年、赤軍がドイツへの先制攻撃または限定的な予防戦争を含めた西方への進出を企図していたという見解も出されている)

しかし、例年よりも早く冬将軍が到来し、ソ連軍の焦土作戦により補給が厳しくなったドイツ軍は後退を始めた。

日本の真珠湾攻撃とアメリカの参戦

1941年10月に東條英機内閣が成立。 その2ヶ月後、1941年12月に大本営が連合艦隊に真珠湾攻撃準備を命令する。そして12月8日、日本海軍機動部隊から出撃した航空部隊が、ハワイ・オアフ島の真珠湾に奇襲を掛ける。真珠湾攻撃で米太平洋艦隊は艦艇5隻が沈没し、米国民間人68人と、軍関係者2336名が死亡した。12月7日、「宣戦布告なしに奇襲するのは卑怯だ」という世論を後ろ盾に、アメリカ大統領ルーズベルトが日本に対し宣戦布告する。

これにより、大東亜戦争(当時)が始まった。また、この数日後、独伊は米国に宣戦布告し、戦線は全世界に広がった。

ちなみに、日本ドイツの快進撃に影響されて宣戦布告をしたが、奇しくも12月といえば、ドイツがモスクワを後退し始めた頃である。

戦局の転換期(1942年)

それまで破竹の勢いだった日独両国は、1942年の夏ごろから徐々に戦線を後退させるようになった。

ドイツ

「土台が腐った納屋は入り口を一蹴りするだけで倒壊する」とアドルフ・ヒトラーが語ったという逸話があるように、ドイツ(というかアドルフ・ヒトラー)はソ連も短期決戦で勝利できると想定していたが、前述の通り、モスクワを占領できず、シベリアに配置していた大軍がモスクワへ帰還したため、短期決戦を諦め、持久戦へと切り替えた。しかし、もともと「持たざる国」のドイツにとって、持久戦はジリ貧を招く以外の何物でもなかった。

1942年、主に南方のカフカース油田を占拠するために、ドイツ軍は「ブラウ作戦」を発動した。

当初はスターリングラードは目標ではなかったが、アドルフ・ヒトラーの一言で、作戦は変更された。

同年6月28日にかの有名な「スターリングラード攻防戦」が開始された。約8ヶ月続いたこの戦いでは、国家元首の名前が冠されるこの地での赤軍の奮闘っぷりが、ドイツ軍の予想を大いに裏切り、建物1つを争うほどの激戦区となった。

当初はドイツ軍がスターリングラードを包囲していたが、後に逆包囲された。アドルフ・ヒトラーの絶対死守命令により降伏を許されなかったドイツ軍はこの戦いで多くの戦死者を出し、この頃からドイツの敗戦は徐々に色濃くなってきた。

日本

日本は、英領シンガポールや米国の植民地であったフィリピンを占領するなど、まさに連戦連勝であり、東南アジアの占領地を増やし、戦線を拡大させた。

しかし、4月に米国軍から東京が空襲を受けたことは、軍部に衝撃を与えた。これを受けて、米海軍機動部隊を叩き、太平洋方面へ戦線を拡げるために、ミッドウェー島攻略を決める。

1942年6月、ミッドウェー沖に派遣された日本の機動部隊は米国の機動部隊に大敗を喫した(ミッドウェー海戦)。この結果、日本は主力空母4隻を失ったが、何より熟練搭乗員を多く失うこととなり、量はともかく質的な意味で機動部隊は失った戦力を回復することはできなかった。

当初優位に立っていた日本が虎の子の空母を熟練搭乗員を多く失った一方で、物量の面で圧倒的に優位だった米国は、この戦い以後も空母をどんどん投入し、次第に戦局の主導権を握ることとなる。そのため、この海戦が太平洋戦争でのターニングポイントと呼ばれる。

なお、この戦いの結果は国民には日本海軍の勝利と伝えられた。この頃から国民に対しての戦果を伝える状態が続くようになる。

主導権を握り始めた米軍は、日本軍の飛行場があったガダルカナル島を制圧した。以後、この島を巡って、日本軍米軍の間でガダルカナル島の戦いや第1次・第2次ソロモン海戦が起き、日本軍は戦力を大きく消耗し、戦線の後退を始めた。

終戦

イタリア軍降伏

ドイツ軍降伏

日本軍降伏

戦争が残した爪あと

この大戦の被害は余りにも大きく、全世界での死者総数は5000万人から6000万人と推定されている。

具体的な犠牲者数は現在でも特定はされておらず、下記統計も参考程度とご理解下さい。

関連項目


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Last-modified: 2020-01-28 (火) 14:16:00