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社会保障

社会保障とは、国家や都道府県・市町村といった行政機関の主導で、所得の再分配をおこなうことによって、国民が背負う様々なリスクを、防止・軽減・解消することを目的とした制度である。本項目では社会保障の概要、及び日本の社会保障制度を中心に紹介する。

その他のの社会保障制度は次の項目を参照。 → 各国の社会保障

概要

が生活する上で遭遇する各種貧困を保障し生活の保障となる社会システムのことを一般的に社会保障という。国家政府が保障するナショナル・ミニマム(国民生活の最低限度)を割り込ませないための制度である。現在、多くの国家において国民の幸福の向上のために国家制度の一部として構築されている。

原則は国家社会)が所得の移転を行うことによって実施するものであり、その為に必要な費用が主に国民(法人含む)から集められる事で成立する。21世紀現在、救貧制度と防貧制度の二系統の社会保障が存在し、それぞれの国毎の事情によりどこまで保証するか、どちらにより多くの比重を置くかは違っている。

各国毎の社会保障制度については各国の社会保障を参照。

現在の日本国においては防貧制度を中心に社会保障運用が行われ、防貧制度で救済しきれないものを救貧制度でフォローするという二段方式をとっている。

救貧制度

簡単に説明すると税金を財源に、貧困に転落してしまったを対象として救済する制度のことである。歴史的にはヘンリー8世の1531年法を基点とし1601年にエリザベス救貧法として確立した貧民救済のための法律(Poor Law)を原点とする制度である。

社会貧困者を救済する試みや制度は有史以来各地に数多行われてきたが、西洋において慣習ではなく法律としてわかりやすい形で成立したのはエリザベス救貧法からである。ちょうど日本では江戸時代に突入した時代と重なる。

現在の救貧制度とは大きく異なり、浮浪と乞食の禁止と処罰など、救いというよりは治安維持のための法律であったこと、同時に実際の実施を教区(教区教会)に行わせていた事に大きな特徴がある。これは実際のところ貧困を助ける意図よりも協会の勢力を削る意図が強かったためではないかといわれている。実際にヘンリー8世は修道院解散を主眼として副次的なものとして救貧法を成立させている。

その後、救貧制度の考え方は大きく変わり、現代においては文化的生活まで含めたとしての生活・生存を保障するための制度となっている。その為、日本国など防貧制度と両立している国の場合には、社会保険などではフォローしきれなかったに対する生活のセーフティネット(安全網)として救貧制度が制度設計されている。

なお、救貧制度そのものを怠惰なものとして否定する見解は何時の時代にもどのにでも存在する。西洋においてはキリスト教プロテスタントの一部に見られる恵まれなかった者(財産、健康人生、容姿、体格、才覚、性別、年収、及びすべてにおいて恵まれず、その後、努力の有無を問わず改善できなかった者)は、に見捨てられた棄民であるという痛烈な思想に基づく根深い差別が根幹であるのではないかと指摘されている。

日本国においても生活保護を中心とする救貧制度自体を否定する見識が出ることが往々にして実在する。これは救貧制度(生活保護)そのものを恥ずかしいもの、受けるくらいならすべきとまで考える極めて狭量な考え方に基づくものであり、欧州・米国のどちらとと比較した場合においても恥の文化を持つといわれる日本固有の際立った特長となっている。このような流れになっている原因のひとつとして明治7年に日本において制定された「恤救規則(じゅっきゅうきそく)」に原因があるとする書籍・識者は多い。「恤救規則」においては生活の困難は原則として家族か親族、もしくは近隣(ご近所づきあい)で自己解決しろというものであり、それに該当しないもの(つまり極めつけのボッチ孤児、極貧、老衰、廃疾に該当するもの)に即死しないための米代だけ渡すというものであった。これは現代に生きる我々から見た場合には非常に残酷に見えるが、当時の日本政府(明治政府)はそれだけ財政が困窮していた(国民を救済するだけのお金がそもそも国庫にない)ということの裏返しであり、ある意味切ない日本の近代史の一面ともいえのである。

その後、恤救規則は救護法(1929年)、生活保護法(1950年)へと引き継がれ、その根幹の制度設計もあまり深く検証されることなくそのまま引き継がれてきたのである。結果として生活保護制度そのものに制度としての動作不全が生じてしまっているのである(不具合の各種詳細については生活保護を参照)

日本国においては以下が救貧制度にて提供されている。

防貧制度

主に保険の仕組みを利用して構築される社会保険によって提供される社会保障のことである。その目的は完全な貧困に陥ることを未然に防ぐことにある。仕組みとしては社会構成員が捻出する保険料を蓄えることで、必要な保障に対しての保険給付(現物、資金のどちらでもかまわない)を行うというものであり、保険の仕組みを社会保障に適用したものでもある。制度全体の構造や社会保険の詳細については、社会保険を参照。日本国においては主に以下が防貧制度にて提供されている。

日本の社会保障概要

日本における社会保障は、以下の5項目に分けられる。

厳密にはこれらの項目に分けられるが、広く捉えると住宅補助も含まれる。

また、公衆衛生として上下水・ごみ処理・火葬場(墓地)・道路などの整備も含まれるが、日本ではもはや社会保障としての運営されておらず、行政またはその外郭団体によって担われている。

これら、社会保障の財源は、保険原則もしくは扶助原則の2通りに分けられる。

日本社会保険諸制度は、保険料のみによって運営される厳密な意味での社会保険ではなく、公的資金が多分に投入されている。なお、社会福祉・公衆衛生の財源は、公的扶助原則にのっとる。保険者(社会保険の運営主体)や制度の運営主体は、・都道府県・市町村単位といった地域や、職域によって分けられる。日本社会保険の所管官庁は厚生労働省となっている。各制度の区分方法は割愛する。

日本の社会保障の道程

社会保障前史

現在の社会保障制度に相当する制度は、戦前の日本にも存在した。職域によって分けられた労災・失業・医療保険や、第二次世界大戦中に全国民を対象とした医療保険などがそれにあたる。日本以外の諸外国でも、イギリスの救貧法(18世紀)や、ドイツ社会保険3部作(19世紀)などが、著名である。日本の制度はドイツの制度を参考にしたものであった。が、当時は、そもそも「社会保障」という言葉も生まれておらず、国民の最低生活の補償という現在の役割とは異なり、社会主義運動の抑圧や、国威発揚などがその目的とされた。

社会保障の誕生

「社会保障」という言葉は、1935年、ニューディール政策の一環でおこなわれた「Social Security Act(社会保障法)」にて初めて使われた。

この政策は、当時アメリカで細々と運営されていた社会保険や、社会福祉政策の拡大を目的としたものであった。ではなぜ、「社会保障」という言葉は戦後、西側諸国注目されるようになったのか。

そのきっかけの1つは、1941年の米英による大西洋憲章である。これには戦後の世界での秩序構築について述べられ、その中で「社会保障の拡充」の必要性が記されている。そして、戦後、イギリスでは『ベヴァリッジ報告』(1942年)に基づく、社会保障と完全雇用を両輪とする、福祉国家体制を目指した。

また、多くの西側諸国もそれに見習い、また戦前の反省を生かし社会保障の拡充に務めた。一方、アメリカは、自由主義を基調とした風潮のもと、他の西側諸国のように社会保障を拡充することは無かった。歪みねぇな。

社会保障が戦後注目されるもうひとつのきっかけはILO(国際労働機関)による、『社会保障のへ途』である。この報告書の意義は、それまで定義付けされていなかった社会保障という言葉の定義付けをおこなったところにある。しかし、その定義も、「社会保障は、社会がしかるべき組織を通じて、その構成員が晒されている一定の危機に対して与える保障」という、極めて曖昧なものであった。だらしねぇな。

そのため戦後まもなく様々な国で、社会保障という言葉の解釈を巡り混乱が生じていた。

象徴的なのが、 日本国憲法の第25条2である。

日本国憲法25条2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」

1950年の社会保障制度審議会において、日本の社会保障は上記の5項目から老人保健を除いた4項目に整理されるが、憲法の解釈では、本来、社会保障に包含されるはずの、社会福祉と公衆衛生が、社会保障と並列して扱われている。おそらく社会保険と勘違いしたんだろうな…。

無論、改憲はおこなわれていないので、条文はそのままである。 仕方ないね。

社会保障という言葉の定義は、上記の通り、曖昧で広義的なものであった。それゆえ各国が執りおこなった政策は、多様性に富んでおり、一元的・一義的に捉えることは難しい。しかし、多くの西側諸国で社会保障関連政策は、積極的に採用され、戦後の世界を大きく突き動かしていくことになる。

皆保険時代の到来

戦後まもなく、日本の社会保障は、GHQによる占領政策としておこなわれた。具体的には戦災孤児や浮浪者を対象とした社会福祉政策や、上下水整備やスラム撤去といった公衆衛生政策、また国立病院を中心とした医療機関の整備がおこなわれた。

おくれて現在の社会保障の根幹である社会保険の整備が行われていく。福祉元年、高度成長期を経由してその後の制度設計の破たんが目につくようになり制度による困窮が発生するありさまとなってきた。詳細は社会保険を参照。

高齢化による社会保障制度改革

80年代に入ると財政的な問題だけではなく、高齢化の問題も、議論されるようになった。社会保障制度と高齢化は、密接な関係である事は、決して想像しがたいことではない。なにより、日本の高齢化は、欧米のそれより速いスピードで進展していったため、制度もその変化に対応するものが求められた。

医療においては、現役世代と高齢者の制度的枠組みの切り離しがおこなわれる。それが1982年に創出された老人医療制度であり、現在の後期高齢者医療制度の前身でもある。罹患率が高く、また世帯所得が現役世代より低い高齢者の医療利用は、保険財政ではなく、高齢者を抱える世帯の負担も増加させた。そのため、70歳以上の高齢者の医療費に対して、や自治体からの公費の投入を認めたものである。

また、高齢者で、介護が必要であるにも関わらず、家族による介護が不可能で、措置制度が受けられなかったが、病院に入院するという、いわゆる「社会的入院」が着目され始めるのも、この時期である。こういった事態に対して、1992年に、一般病床よりも必要医師・看護師数と診療報酬が少なくても認可される「療養型病床群」という入院病床が、認可され、多くの病院で採用されることとなった。

年金制度では、1986年に抜本的な改革として、国民基礎年金制度と厚生年金制度が創設された。従来は、被用者とそれ以外(国民年金)で、年金制度は異なるものであったが、これを一本化、全国民に共通な部分を国民基礎年金として創設した。そして、拠出に応じる給付をおこなう、従来の被用者年金の部分は厚生年金として、再編された。また20歳以上の国民の保険料納付も義務付けられた。

1990年頃になると、高齢者の介護や医療需要の今後の増加が懸念され、施設的人員的な面での緊急整備がその課題となった。そこで、1989年に「高齢者保健福祉推進10ヵ年計画(ゴールドプラン)」が制定され(1994年に全面改訂)、それに基づく整備が行われるようになった。また、1995年にドイツでは介護保険制度がスタートし、日本もそれにならい2000年に「介護保険制度」が創設される事が決定した。それによって益々高まるであろう介護需要に対応したのが、「ゴールドプラン21」である。その計画を受け、全国で多くの介護施設が建設された。

今世紀に入ると、ついに日本の高齢化率は20%を超え、ますます社会保障関連支出は増加している。創設されて間もない、介護保険制度も財政状況が著しくない。こうした中、近年「消えた年金問題」など、国民の社会保障にたいする不信感も募り、保険料の納入率の低下をおこしている。

今後、高齢化がますます進行していく事に対して疑問を呈するものはいないであろう。高齢化が進展していく中で、日本社会はこの苦難をどう乗り越えるのであろうか。

日本の社会保障関係費

当たり前の話であるが社会保障制度の運営にはお金がかかる。本項目では、どれだけのお金がどのような使途で使われているか(社会保障給付費)、そして、そのお金はどこから得られたものであるか(社会保障財源)を紹介する。

なお本項目は国立社会保障人口問題研究所のデータに基づく。

社会保障給付費

2009年度の社会保障給付費は以下の通りである。

医療給付年金給付その他福祉
(兆円)(国民所得比)(兆円)(国民所得比)(兆円)(国民所得比)(兆円)(国民所得比)
99.829.4%30.89.1%51.715.2%17.35.1%

社会保障財源

2009年度の社会保障財源は以下の通りである。

社会保険公費負担他の収入
事業主拠出被保険者拠出地方資産収入その他
(兆円)(兆円)(%)(兆円)(%)(兆円)(%)(兆円)(%)(兆円)(%)(兆円)(%)
121.826.121.429.324.029.324.19.98.114.612.012.610.4

あくまで社会保障全体の財源であることを注意されたし。なので、社会保険関連であれば、税源に占める社会保険料の割合が増え、また社会福祉関連事業になると保険料の拠出はほぼゼロになり、一方、公費負担が増える。使途別の財源を知りたい人は上記の社人研のリンクを参照してネ♪

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Last-modified: 2019-10-28 (月) 23:16:41