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社会

社会(しゃかい)とは子供たちにとって経年劣化著しい情報の丸暗記でしかなかった社会科のことではない。また、大人たちが教科書を巡って怒涛の裁判を続けた社会科のことでもない。世論と似ているようだが、どうも違うらしいのである。詳しくはこの文章を読み終えた後に暇な社会学者にでも尋ねて欲しい。

概要

社会には様々な形態があるという。

社会とは一般的に人同士が関わりを持った段階で生み出されるものと考えられている。そして、その社会環境にいるもの同士がそれぞれ違った社会を形成することもわかっている。

特に有名な社会の形態としては家族がある。扱いを間違えれば核爆発する恐れのある核家族、ギャグマンガの格好の題材となる大家族、ハウスメーカーが出来るだけ豪勢な家を売りつけるために考案した二世帯家族及び三世帯家族、一家の主がちゃぶ台をひたすらひっくり返し続ける封建的家族、など家族だけでも様々な分類がある。

もっと知りたければ後で暇そうな社会学者に尋ねて欲しい。おそらく彼らが書いた面白い文章で説明してくれるだろうから。ちなみに社会の窓は、開きっぱなしにすることで人が他の人との関係を破壊する兵器である。

社会という概念の成立

最低限の社会は2人で形成されるものである。孤独という概念ですら、群れという言葉があって初めて生ずるものであり、人の間ジンカンと書いて「ニンゲン」と読む言葉は、すなわちヒト同士が関係を持つことで生み出されたものである。

安心しろ、書いてる側が理解して書かなければならないなんてほーりつはない

工□

そのため、ケルナグールだのアーバンチャンピオンだの、ストリートファイターⅡだの、ヒト同士が殴りあう関係ですら、ある意味、立派にニンゲン社会を表すことになる・・・のだけれど、それだとあまりにも社会が成立する様子を説明しづらいので、ここでは、最低限の数で表す社会についての説明を暴力ではなく、エロ力の説に沿って説明するものとする。なお、この言葉をひらがなでかくとえろちからである。

まぁ、読んでるヤツラを騙せればなんだっていいんだ。

エロカという言葉で真っ先に思いつくのは、2009年現在、イケ面で歌手、なおかつ俳優でもありながらY談の名手として多くのファンを擁する福山雅治である。彼のように、工口に強いことすら自らのカリスマとする存在は、残念ながら社会の形成とはなんの関係もない。

ここでいうエロリキによる社会の形成にもっとも大事となる要素はすなわち、恋愛というヒトの本能で一人の人間の周囲にが群がっていく様である。社会とは、えてしてそんな言葉にすることもできない感覚にそって形成されていく。そのため、この感覚によって形成された社会では、一人のをめぐるの争い、もしくはをめぐるの争い、さらには、同★性★愛にいたるまで、死者行方不明者けが人、心の傷を含めると数十億人ではきかない被害者を生み出している。

ま、暴力といえなくもないが、絶対に違う。

その代償として、世の中に「家族」という社会の一形態が出来上がってくるわけである。代償・・・まぁ、代償か、うん。

Shock!

下ネタは苦手だが、下仁田ネギは好きだ。というわけで次は農業についての話。これまたヒトが生きていくために必要な一日の最低カロリーを摂取する行動、すなわち「食」を支えるために形成された社会の話である。なお、「食」に関する社会は存在しがたい。自然に存在するものを食っていればヒトは生きていけるため、あくまでもヒト単体ではなく、ヒト同士で行うことで社会を形成するのだから。というのは建前で、本心を言うならばヒトが二人以上いる関係で「食」を語ろうとするならば、カニバリズムを外して考えることができない。

まぁ、懇切丁寧に語ってもいいけど、さすがにいたいけな少年少女たちにガ島やアンデスの聖餐の話をするのも忍びないので、ここは明快に「食」についての社会形成をすっ飛ばして、「農」によって形成される「村社会」の話をする。

Oh!農!

「農」によって形成される社会とは、紀元前10000年頃にシリアにてライ麦を栽培することによって始まったとされる。それまでの狩猟を中心とした生活では、人間にとって1日に必要な最低のカロリーの摂取を続けることが大変に難しく、社会というものは常に「家族」もしくは「部族」程度の小さな集団でしか維持できなかった。しかし、年単位の栽培方法の確立によって、初めてヒトの集団は「部族」単位からは「村」単位、そして「民族」、「」単位まで広がっていくことになる。

もちろん、広がれば広がった分、必要となるカロリー数が多くなるのは当然のことで、村社会、国社会が混乱して、農作業を行うことができなければ、待っているのは集団餓死。餓死の前にはカーニバル。健全なEgachan Galleryにおいて、これ以上いたいけな少年少女たちに悪影響を与えてはいけない。

パンも食わずに神の言葉だぁ?アホか。

食い物の話にも飽きた。生臭い話にしよう。

次はこれまた全人類を1億人ぐらいは殺したんじゃないかという、自分の信じる見えない何かについてのゴタゴタ、「宗教」と社会のかかわりについての話である。大昔から現在にいたるまで、人間なんざ、自分の知識の外で起こる事象を理解するために神だの悪魔だの奇跡だのといった分かりやすい言葉で脳内処理してきた。その結果、全人類に嘘をつく能力が発達し、物語やら伝説やらが生まれる素地が作り出され、ありえんことでも信じてしまうという、まさに信仰心の根幹に関わる「疑うな、ボケ」という観念が社会の中に根付いてしまう。その結果、神も悪魔も科学文明が盛んな現在においてでさえ市民権を得て、なおかつカネの成る木と化し、そしてワンパターンな物語に毎回顔を出し続けるのが現実ってもんである。

恐怖『が』、ではなく、恐怖『も』社会を形成する

まぁ、その宗教ってものが社会に生まれたのが紀元前9000年ごろ、古代シュメール人がメソポタミア文明を成立させたのと同じころと思われている。丁度、それまでの「村」から「民族」レベルまで人口が膨れ上がったころである。いわゆる四大文明と呼ばれる黄河文明、インダス文明、メソポタミア文明、エジプト文明のほか、様々な文明が「農」を中心に発展していく過程はすなわち、食べるものが無かったら奪えばいいじゃない、という、どこぞのマリーさんと同じような考えのもと、村同士、部族同士で絶え間ない争いが勃発しまくったころにもあたる。

その結果、カニバリズムは忌むべき行いとされるわけである。なぜなら、殺して奪ったほうが楽だから。

あわせて、この時期を中心に、人間、腹いっぱいの状態で余暇を与えるとバカなことをしまくるという、全人類共通の教訓が生まれ、その教訓にそって、いかに全人類から余暇と満腹を減らして過ごさせるかを、多くの指導者が考えていくことになる。そのような教訓が積み重なってできたのが、法であり教義であり掟である。そんな約束事をうまいこと社会にいきわたらせるために、神という本来恐れるべき存在を利用すればいいってことに気づいた連中が出てくる。

中でも有名なのが、紀元前13世紀ごろ、エジプトから紅海を渡ってシナイ半島へ逃げ出した奴隷の一人がシナイ山のてっ辺でヤーウェにもらっただのなんだの適当なことをいって、逃亡奴隷仲間に10個の戒律を持ってきて、それを破ると怖い神様が罰を与えるなどと伝えたところ、効果てき面。以後、3000年にわたって子孫連中が怖がりまくることで世の中に「ユダヤ教」という概念を成立させ、単なる逃亡奴隷の親玉でしかなかった赤服のモーゼとかいうひげは、今では預言者としてキリスト教やイスラム教などの数々の他宗教にまで崇め奉る存在となっている。

思ったより、戦争ってが死んでないよね

抹香臭い話は切り上げよう。血なまぐさい話にしよう。

四大文明全てにいえることは、どの文明も戦争によって大きくなったということである。中国の王朝の始まりとされる夏王朝(紀元前2000年ごろ)は黄河の治水事業を通じて巨大になっていったが、服従しない近隣部族を征伐しまくっている。インダス文明も、その基本となる遺構は全て城塞都市である。メソポタミアとエジプトについては、あまりに外敵の侵入が多すぎて、書く気すら起きない。

おめでたう。第1章はこれで最後だ。

しかし、それらの外敵の侵入、征伐、融合、交流などにより「村」社会は「国」へと変貌を遂げることになる。そして、大きな勢力になればなるほど、「食」もしくは「農」という、社会を形成する必須の概念が希薄になっていく。これは、「国」という巨大な社会が成立したことにより、治水、開墾といった大規模事業による生産性の増加や貿易などによる「農」以外で人間の必須カロリーを取得する手段が増えたことによる。

簡単に言うと、世の中が平和になったってことである。実に面白みが無い。

しかし、当然のことながら様々な自然災害や人的災害によって、餓えた連中が大挙して国境を超えてきたり、逆に数年続いた飢饉のため、国家が存亡の危機にたったりと、歴史はここからが面白い。

もっとも、多くのEgachan Galleryがここまでの文章で頭がわやになっていることは確実のため、いいかげん社会の形成についての話はここで切ることにする。

社会の種類

ここは一拍置いて、Egachan Gallery的な社会の分類をする。

社会には大きく分けて2つの種類がある。1つは「エロ」だの「食」だの、とにかく言葉でくくられる類のもの。もう一つは言葉にできやしないなんか。

第一、人間のなすことを枠組みでくくろうという段階でうぃきっぺぢあもたかがが知れている。

ここで法治国家だの政教分離だのいう話になると説明が難しいので、知りたい人はこの項目の右上にあるウィキペディアの該当ページを参照ください。うぃきっぺぢあがなんたるかを肌で感じ取ってください。

本当に参照した人へ

ごめんなさい

スルーした人へ

素晴らしい判断です

全部あわせて人間社会

ここまでいくつかの社会の成り立ちについて述べてきたが、これらの各種社会が複雑にからまってできていったのが人間社会・・・ではなく、人間という言葉である。ヒト人間になって社会になるのではなく、ヒトが社会を形成して、人間という概念が生まれる。

という、適当な大ボラである。

上述した中で、2~3つの社会を組み合わせるぐらいならまだしも、全部組み合わさってできているのがいわゆる人間社会てえものである。そのため、社会に対する設定はどんな枠組みでも正確で表されることになりうる。それはエロでも暴力でも悪魔崇拝でも宇宙でも動物でも植物でも、とにっかく節操がないぐらい社会という言葉で表すことができる。そこにヒト同士のかかわりがあるならば。

もっとも、たった一言で社会全体を語りつくそうとしても、それは無理ってもんである。エロ力による社会形成を暴力で話そうとしたところで、強姦レイプなどの人としてどうかと思う話にしかならない。逆にエロ力で暴力を表そうとしても同じ道をたどる。多元的な話を一方向からしか見ないようじゃあ、ユーモアを解することは到底不可能である。

一つの結論、のようなもの

結局のところ、言葉にできるものを組み合わせた社会とは、様々な要因を掛け合わせることで成り立った最大公約数であり、割り算で言う巨大な分子のような存在であると間違うことが一番分かりやすい。

宗教を語るときにキリスト教だのイスラム教だの、個々の立場を抜きにして語る際に、もし、キリスト教の立場で他宗教を語ればそれはすなわち異教徒、異端、火あぶり、魔女狩り、車裂き、磔刑、人間たいまつなどなど明らかに宗教の話ではなくなってしまう。それよりも、むしろ人間社会という観点から宗教を語り、宗教という側面から見た「農」や「食」「エロ」や「村」などを語るほうが、よっぽど楽であり、なおかつ語り手のお郷が知れるなんてことを回避することができる。

また、このような視点を持つことで、物語的な歴史観点の打破につながることも大きい。

・・・まぁ、司馬遼太郎が悪いという話でもない。

言葉にできないなにか

しかし、そんな社会ばかりではクソ面白くない、と考えたヤツラによってEgachan Galleryができたことは動かしがたい事実である。第一、割り切れることで社会ができるんなら、割り切れやしないものだって存在してるにきまってるぢゃないか。

というわけで、どうしたって割り切れることのできない素数、虚数についても述べる。

Egachan Galleryだもの。

以下、社会という常識に基づいた問いかけ

人間の勝手はあくまで自然法を介した人間のお互いの重視を前提にするものであって、たとえば、他人にわざと攻撃を加えるような行為を行う者は自ら進んで人間としての権益を捨てることになる。そういう人間はもはや人間ではなく、猛獣であり、それを殺害してもいいし、あるいは隷属させることもできる。それは人間人間との関係ではなく、人間と動物との関係と見なされる(社会契約説的な意見)。

※社会から利益を受けているのだから、当然それに対する義務も発生する(国家という枠組みの中での意見)。

※ここは我々の社会であり、最低限の規則を守らないならば、ご退去いただく他はない。(地域という枠組みでの意見)

※証拠は揃っているんですよ。え、違うって?それなら反証可能性を示してください。(検察や探偵などの社会正義に拠った言葉)

これらは、すべて一定の前提条件に基づいた発語である。どれも最低限の価値観も共有しなければ、意味のない言葉である。

それらをぶち破る模範的回答

「日が陰るのでそこをどいてくれ」
    ~ ディオゲネス

「世界は私のふんどし。君は人のふんどしの中で何をしている」
    ~ 劉伶

「自分をこんなふうに作った神が悪い」
    ~ オマル・ハイヤーム

「黙らせたからといって、意見を変えさせたわけではない」
    ~ バーナード・ショー

「カネが欲しくて働いて、眠るだけ」
    ~ 忌野清志郎

の中のはみんな、自衛隊に入って華と散る」
    ~ 高田渡

これらの模範解答は、各時代、各文明における価値観の破壊について述べた発言である。しかも、これらの言葉は世界中のどんな社会でも通用するろくでもなさを共有している。もちろん、こんな言葉を述べるのは狂人であり変人でありろくでなしどもである。しかし、その発言が時代を生き抜いて新しい文化が生み、なおかつ、古い文化を残している。正直なところ、こんな連中がヒトと関係して、一つの社会を形成するわけはない。絶対にない。しかし、社会を形成する以前のヒトとしての行動には、こんな連中の存在が大変に有意義であるという話である。

また、様々な社会において、このような言葉を受け入れる下地があるところほど、新しいものを取り込めることも事実である。それこそが2000年も前の変人奇人どもがいまだに名を残す一番の要素である。彼らはいつだって新しい。クソ新しい。ろくでもない。こん畜生め。そのため、こんな読みたくもない文章を読ませるような苦行において、社会とか国家とか宗教だの、書いてるだけで気がおかしくなりそうな存在に対し、ああいうたわけた言葉やアホな事例を差し込むことで一気に読みやすく、なおかつ、適当な持論に読み手を乗せ易くなるありがたい存在でもある。

模範解答についてのまとめ

ちなみに、これらの言葉にできないなんかについては、中国の思想家である老子が3000年も前につばをつけているため、本項で触れる意味はあまりない。また、20世紀の文学でもサン・テグジュペリやら安倍公房やらSF作品全般、もしくはクトゥルフ神話でさんざっぱら語りつくされている。

語りつくされているくせに言葉にできないということを気にしてはいけない。

まぁ、そんなもんである。

脚注

関連項目


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Last-modified: 2019-10-28 (月) 12:36:18